郵便制度の父 前島密

 

 

 

 

 

 

 

「縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」

 

 

 

前島 密(まえじま ひそか)

生誕:天保6年1月7日(1835年2月4日)

死没:大正8年(1919年)4月27日)

 

日本の官僚、政治家。「東京遷都」の提言書の発案や、日本の近代郵便制度の創設者の一人で1円切手の肖像で知られる。「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めた。その功績から「郵便制度の父」と呼ばれる。

 

官僚として多くの実績を残しながら、「誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは 思わない」 (前島談)と、郵政大臣であった前島は利権を貪ることが可能であったが、郵便制度 の創立を成し遂げた後、民間に下っています。民間でも多くの事業を成功させた前島は、いまも続く数々の諸制度の父であり、明治という若くもろい政府にあって、政争に参加せず、実務に没頭し、なおかつ国のグランドデザインを描いた稀代の英雄です。

 

 

■郵便制度 の父として

 

1871(明治4)年、越後高田の前島密(36歳)は、飛脚に代わる西洋式の郵便制度を提案しました。発足間もない新政府からは資金的な援助は期待できません。そこで、前島密が考えた手品は、江戸時代から続く(旧庄屋・名主)層に、世襲の局長になってもらい、屋敷の一部に郵便局を開設することでした。準官吏としての名誉と国家からのわずかながらの報酬で、魔法のように1万3000局の郵便網が一瞬で全国市町村に張り巡らされました。これが今、話題になっている特定郵便局のルーツです。

 

前島の傑出した働きにより、低額の切手をはるだけで、全国どこでも、あて先に届けられる郵便制度が発足しました。

 

江戸時代、国内の遠距離通信には飛脚が利用されていました。飛脚と呼ばれる人たちが、走って郵便物を運んでいました。

しかし人力で運ぶ飛脚は値段がたかく、東京と大阪を3日で伝達する早飛脚を利用すると、35円。現在の貨幣価値でいうと60万ものの料金がかかったのです。

 

前島の尽力によって、日本国民は、明治5年には北海道の一部を除いて、日本全土に手紙を出せるようになりました。しかも、料金は最高でも5銭です。日本国民は格安の通信料金で、遠距離通信を楽しむことができるようになったのです。

 

その一方で、飛脚業界は壊滅の憂き目に会いました。飛脚は郵便制度との共存ができず、この世から全く消滅してしまったのです。

 

しかし前島は、政府として飛脚業界に、どのような受け皿を作ってあげれるかを話し合い彼らのために、荷物を運ぶ会社を作りました。これが後の日本通運です。

飛脚は形を変えて、現代の日本に残っています。

 

前島は、郵便の他にも「郵便貯金」「郵便保険」をそれぞれ発足させました。とくに郵便貯金は、現在260兆もの資金をあつめる制度となり、国の財政を助ける一助にもなっています。小泉内閣当時、民営化を迫られた郵便制度でしたが、そのすべては前島が立案したものです。140年の時をへて、前島をこえるグランドデザインが描かれるのか? 注目です

 

 

■前島密は東京の生みの親!?

 

ちょっと前まで、携帯なんてなかったのに、あることが当たり前になってしまうと、当時の待ち合わせの方法を思い出せるでしょうか?

 

誰もが知る大都会、東京も当たり前のようにあるようにあって、1つの投書がなされるまでは、東の京どころか、ぺんぺん草の生える消滅都市になる寸前でした。そんな今に続く「東京」の価値を進言したのが前島密。そして、その投書をうけとった主は大久保利通だったのです。

 

明治維新直後、首都は京都、あるいは大阪にするべきだとの声が多数のなか、政府は新しい首都をどこにするか検討していました。

 

前島密は、1868年(慶応4年)に、遷都の地はわが国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言しました。

この意見は大久保を動かし、その実現を見ました。この年7月江戸は東京と改められ、9月に天皇は東京へ行幸になり、江戸城は皇居となったのです

 

大久保は後年、数人の政府高官と維新前後のことを回想していたとき、ふと思い出して

「あの頃、私は大坂遷都を強硬にすすめていたのだが、一通の投書が舞いこんで、その文章にひどく感銘し江戸遷都に踏み切ることができた。あの文章の主は、いったい誰だったんだろう」と言った。

その目の前に前島密がいた。彼は功を誇らない人間だったから黙然としていた。同席の人物が、前島からその秘話をきいていたから「いやこの前島君ですよ」といった。大久保は膝をうち、感嘆してしばらく声がでなかったという。

参考・司馬遼太郎『歴史の世界から』

 

 

■縁の下の英雄 すごすぎる前島密の知られざる実績

 

前島密の名のとおり、密(ひそか)に実績を積んでいったいった前島の偉業に敬意を払いその実績で打順を組んでみたいと思います 

 

1番  郵便制度を開始

2番  通運会社を設立

3番  西南戦争時の臨時首相

4番  「東京遷都」を立案

5番  鉄道敷設の立案

6番  新聞事業の育成

7番  海運事業の補助

8番  日本初の盲学校の設立

9番  電話の開始

 

 

郵便創業

1871年(明治4年)、東京大阪間で官営の郵便事業が開始されました。これは前島密の発議によるものでした。

「郵便」や「郵便切手」などの用語は、彼自身が選択した言葉です

 

陸運元会社を創立

江戸時代から陸運業務と併せて信書送達を行なっていた定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)は、郵便事業に強く反対していましたが、前島密の説得を受け入れ、1872年(明治5年)6月に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立しました。

この会社は、全国の宿駅に誕生した陸運会社を統合し、郵便輸送を中核として貨物専門の近代的な通運会社として発展しました。

  

西南戦争時 総理の代理をつとめる

西南戦争のため内務卿の大久保利通に変わって内務省の省務をみる(※憲法発布前の政府にあって大久保は実質的な総理でした

 

東京遷都を提言

 

鉄道敷設の立案

前島密が明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられました。当時わが国には、その標準となるような資料は全くありませんでしたが、彼は苦心の末に精密な計画案を作り上げました。のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したといいます。彼はこの案に「鉄道臆測」と名づけました。

品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことでした。

  

新聞事業の育成

前島密は、欧米社会を見聞して、広く世間の出来事を伝える新聞が必要なことを痛感し、その発達を助けるために、1871年(明治4年)12月新聞雑誌の低料送達の道を開きました。

その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に郵便報知新聞(のちの報知新聞)を創刊させました。 

 

海運政策の建議

前島密は、海運の大切なことに着眼し、函館では自ら廻送(かいそう)業者の手代に加わって、その実務を体験しました。

1872年(明治5年)日本帝国郵便蒸気船会社が生まれたのも、彼の意図によるものでした。1875(明治8年)、大久保利通は、前島密の建言によって、画期的な海運政策を建て、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(当時「三菱商会」)を補助して、その政策を進めることとなりました。

これが今日の日本郵船株式会社の前身です。近代海運はこのときから始まったといわれています。

   

訓盲院(くんもういん)の創立

1876年(明治9年)に視覚障がい者の教育を目指す楽善会(らくぜんかい)に入会した前島密は、杉浦譲(すぎうらゆずる)など同志の人たちとともに私金を出し合い、訓盲院の設立に力を尽くしました。

1879年(明治12年)に完成した訓盲院は、その後文部省へ移されましたが、彼は引き続き同校の役員として、長くその運営発展に力を注ぎました。訓盲院は、現在の筑波大学付属盲学校の前身です。

他にも、早稲田大学の前身、東京専門学校が創立された際には、前島密はその創立に参画してこれを助けました。

    

電話の開始

1890年(明治23年)12月、東京・横浜市内とその相互間ではじめて電話の交換業務が開始されました。

電話事業については、1883年(明治16年)以来官営にするか民営にするか議論されていました。

前島密は1888年(明治21年)逓信大臣だった榎本武揚(えのもとたけあき)の依頼で逓信次官に就任すると、官営に意見を統一し電話事業を開始しました。