日露戦争の隠れた英雄 明石元二郎

 

 

 

 

 

 

 

「落花流水」

(らっかりゅうすい)

落ちた花が水に従って流れる意で、ゆく春の景色。転じて、物事の衰えゆくことのたとえ。時がむなしく過ぎ去るたとえ。別離のたとえ。また、男女の気持ちが互いに通じ合い、相思相愛の状態にあること。

「 落花流水」は、明石元二郎が参謀本部に 提出した報告書の題名である

 

 

 

明石 元二郎(あかし もとじろう)

生誕:元治元年8月1日(1864年9月1日)

死没:大正8年(1919年)10月26日)

 

明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。

 

日露戦争においてヨーロッパで活躍した伝説的スパイ。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評しました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えました。

  

明石元二郎は100万円(現在の40-50億円)の工作資金を持たされ、大国ロシアの不満分子、ロシア国内の革命政党を支援し、内乱を起させ、ロシアを内部から揺さぶる使命を帯びます。

 

明石は100万円を東ヨーロッパの反ロシア勢力にばらまくことにより、帝政ロシアの根幹を揺るがします。ロシアが日露戦争継続可能であったにもかかわらず、日本と不本意な講和をせざるを得なかったのは国内の反体制勢力の跳梁が無視できないほどに激しくなったことが大きく関係しており明石の活躍が大きいと評価されています。

 

明石は100万円すべてを使い切れず27万円を残して帰国し返納しました。使ったお金の受領書や使途の書付はきちんと残しておいたそうです。

 

後に第7代台湾総督に就任し、大正8年(1919年)、公務のため本土へ渡航中の洋上で病となり郷里福岡で死去しました。孫にあたる明石元紹は画家で日本李登輝友の会理事を務めています。ちなみにご先祖は関が原、大阪の陣で奮戦した明石掃部頭全登(あかしかもんのすけたけのり)といわれています。

 

 

 

■戦わずして勝つ(孫子の兵法より)

 

上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は已むを得ざるが為なり。』

 

「最上の戦い方は、敵の謀略、策謀を読んで無力化することであり、その次は、敵の同盟や友好関係を断ち切って孤立させることである。それができなければ、いよいよ敵と戦火を交えることになるが、その際に一番まずいのが敵の城を攻めることである。城攻めは、他に方策がない場合に仕方なく行う手段に過ぎない。」

 

国同士が正面でぶつかりあう戦争。しかしその裏には、何重にも張り巡らされた思惑と罠が存在します。

孫子曰く、「戦わず勝つことが、上を為す」と

 

バルチック艦隊と激突した日本海海戦や、旅順要塞を巡って繰り広げられた肉弾戦で勝利した日本。しかし本当の勝因は緻密に練られた諜報戦によってもたらされました。それが明石大佐によるヨーロッパでのスパイ活動です。当時、日本とロシアの国力の差は10倍以上、緒戦で勝ったとしても持久戦に持ち込まれれば勝ち目はありません。実際、ロシア側は戦力の増強のため兵士の派遣を検討していました。しかし、ここで明石大佐の諜報活動の成果が表れます。

 

明石大佐は、帝政ロシアの打倒をかかげる革命勢力に強力な支援を実施していたのです。いくら巨大帝国であっても内側に火だねがあれば、戦争どころではありません。実際、日露戦争からまもなくして、帝政ロシアはレーニン率いる共産党によってたおされます。孫子のいう「上兵は謀を伐つ」(最上の戦い方は、敵の謀略、策謀を読んで無力化すること)の格言どおり、日本から遠くヨーロッパに単騎でのりこんだ一人のスパイによって、日露戦争は終結し、また巨大帝国はあっけなくほろんでいくのでした。

 

 

 

■「落花流水」 明石大佐の報告書より

  

 明石の手記「落花流水」

 

 明石の手記「落花流水」は、彼の遺族から「特定少数者にだけ配布する」という条件で複製の許可を得て製本した非売品であり、序文にも『他人に見せてはならない』と記されている。その内容は、下記のようになっている。

 

 第一章 : ロシア皇帝の腐敗と、国民の反抗の歴史

 第二章 : 農奴制と、その解放後も国民には不満があることについて

 第三章 : 虚無主義、無政府主義、社会主義などの起因と学説、活動など

 第四章 : ロシア国内の不平分子を分類し、その特徴や活動を紹介

 第五章 : シリヤスク、レーニンなど革命運動家の紹介

 第六章 ~ 第八章 : 日露戦争中に行った諜報活動の話題

 

主にヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き日本陸軍最大の謀略戦を行った。後に、明石の手になる『落花流水』を通して巷間伝えられるようになった具体的な工作活動としては、情報の収集やストライキ、サボタージュ、武力蜂起などであり、明石の工作が進むにつれてロシア国内が不穏となり、厭戦気分が増大したとされていた。

 

明石の著した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』においては、次のような粗筋がベースになっており、明石の工作は成功したものとして描かれ、著名な外国人(日本人から見て)が登場している。

 

明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。

 

明石の工作の目的は、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであった。満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。成果やレーニンとの会見の有無を指摘する専門家もいるが、明石大佐の攪乱活動が戦争終結に大きく貢献した点は、研究者の間でもほぼ見解は一致している。

 

  このように、明石は日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図したものであった。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある。