毛沢東 語録

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」

 

 

毛 沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン)

生誕:1893年12月26日

死没1976年9月9日

 

中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。 

 

■毛沢東とは

  論争のある人物であり、タイム誌の「20世紀の重要人物」の1人に名を連ねている。 混乱を極まる中国を統一した業績の反面、毛の政策については現在でも議論の対象となっている。研究者は、「大躍進政策」と「文化大革命」のような、文化、社会、経済、外交に重大な損害をもたらした問題について非難するとともに、彼の政策による犠牲者を数千万と推定する声もあります。 

 

当時、日中戦争、第二次世界戦により中国大陸はカオス真っ盛りの状況でした。そんななか共産党軍を率いて今の中国を建国したのが毛沢東です。

 

日中戦争当時、交戦状態にあったのは蒋介石率いる国民党で、毛のいた共産党は、まだまだ力の足りない一軍閥にすぎませんでした。しかし国共双方で停戦をむすび、国民党は日本軍との応戦に、そして共産党は大陸の最深部に身をひそめ力を蓄えてきます。このころ、共産党内では整風運動により粛清が開始されるといわれ、毛沢東は日本との外の戦争、そして党内の内の戦争に勝利し権力を確立していくのでした。

 

日本軍の撤退後、再び国共内戦が開始されます。それまで日本軍と戦っていた八路軍は人民解放軍として新たに編成され、ソ連からの援助もあり戦況を有利に進めていきます。そんななか毛沢東は「人民のものは針一本たりとも盗るべからず」っといった無学な兵士にもわかりやすいような軍律を掲げています。こうして共産党軍は国民党軍とは違い、常に規律が保たれていたため、民衆から大変支持されていきました。

 

戦略面での毛沢東は一流であり、傑出した人物として知られています。長征では戦力ゼロの亡命軍を率い、12500kmもの長い距離の間、国民党軍の猛攻を持ちこたえさせました。

さらに持久戦論を打ち出し、当初は貧弱そのものだった共産党の勢力を日中戦争で拡大することによりうまく漁夫の利を得ることに成功、

物質面では圧倒的に有利であったはずの国民党軍を最終的には打ち負かし、革命を成功に終わらせました。のちに毛自身、日本を自分の恩人であると称える場面があったそうです。

 

10億の民がいる中国という国を、わずかな手勢をまとめ一代で統一した毛沢東を、革命の英雄、あるいは現代の皇帝であると賛美する声が多いのはそのためです。

 

また、読書家であり、文筆のセンスも兼ね備えていた、毛沢東は、巧みな文筆で激励された多くの兵士や人民を奮せていきます。そのため、毛沢東は常に指導者としてのカリスマを保ったのでした。

 

事実、彼が考えた言葉で日本でもよく使われる「反面教師」を始め、「戦争は流血を伴う外交である、外交は流血を伴わない戦争である」「政権は銃口から生まれる」といったような言葉を聞くだけでも、毛沢東によるたぐいまれない文才を感じ取れます。また、同じく日本でも使われる「一辺倒」も毛沢東が使用したことにより世に広く知られるようになりました。

 

こうした様々な要素により、毛沢東は“革命を成功へと導いた英雄”なのか、それとも“中国を混乱のどん底に陥れた独裁者”なのか、今もなおその評価が大きく分かれている巨大な人物である。

 

 

■功績7分 罪3分 

困難あり、便法あり、希望あり」(毛沢東 語録より)

 

毛沢東のいう「便法」とは、嘘のことです。大義のためには、嘘も必要だという主席の言葉に、中国の政治の本質が隠れています。世界の主要国では、法治主義が徹底され、首相であっても法に従うことが求められます。しかし中国では時に、独裁者が誕生し、「法」を無視し影響力を隠然と行使することがおこります。

 

毛沢東の功罪の「功」は、次のような業績があげられます

・広大な中国を統一したこと

・外国勢力を一掃したこと(※ 正確には国民党が一掃し、のちに共産党が政権を奪う)

・農地を解放し国民に希望をもたらしたこと

・細かく言うといろいろあるが、10億を超える民が飯を食えるようにしたこと

 

毛沢東の「罪」は・・・

・大躍進政策の失敗

・密告政治

・文化大革命

 

功罪「7:3」と言われる毛沢東の業績ですが、10億をこえる民を喰わせることは並大抵のことでなく、また日中戦争の終結をまって国民を見方につけ、またアメリカ、ソ連といった当時の超大国を振りまわしながら建国を成功させたことは並の政治家ではできないことです。毛語録にある「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」との言葉のとおり、無類の戦上手であったことが分かります。

 

毛沢東の闇については、言論が封殺され近代化を10年遅らせたといわれる文化大革命。そして 1958年から3年間実施された大躍進政策があげられます

 

毛は「雀は年間30キロの米を食う」と言いだし、絶滅を命じます。毛の雀狩りは5年間続けられた。記録では北京で年間11億羽を処分されました。しかして害虫による作物の被害が蔓延し凶作に陥り、他の躍進政策もことごとく失敗し、一説には100万人、また1000万人といわれる餓死者を出すに至ったのでした

 

語録には「功罪は後人に論評せしめよ」との言葉もあり、清濁併せのむ器の多きさを示しています。

 

毛沢東は読書が大好きであり、70万冊といわれる膨大な書庫をもっていました。臨終の時まで書物を手離さなかったといわれてます。1976年、毛沢東は危篤になり、混迷状態に陥ります。このときも意識がもどると、「本を読みたい」と語り、側近に本を読んでもらいながら静かにその生涯をおえたそうです。

 

近代にあって、異質すぎるリーダー毛沢東も、中国の伝統でいう「皇帝」と名を返れば、あながちメチャメチャにも思えません

中国はでかい。そのでかい中国を収めるためには、国際社会では理解しにくい「チャイナルール」が存在するのでしょう、そのルールは中国の伝統であり、また毛沢東がたくさんの文物のなかで、身に着けた知恵であったと推測できます。

 

■2つの中国とは?

 

近現代史を学ばない日本の教育にあって、一番苦手なのが、近世の中国の歴史です。紀元前の皇帝や三国志は大好きなのに、たった5~60年のことがさっぱり分からない(*_*)

 

たとえば、台湾にある中国と、本土にある中国。この2つの違いをきちんと説明できるでしょうか?

実は、この2つの独立国を語ることで、近世の中国の歴史を簡単に理解することができます

 

以下誤解しがちな中国についての理解を紹介していきます

 

① 中華人民共和国(共産党:毛沢東)が日本軍に勝ったわけではない

② 終戦直後の政権は、中華民国(国民党:蒋介石)が握っていた

③ 日本軍が去った後、内戦となり3年後に毛沢東が勝利(1949年)。蒋介石は台湾に逃げる

 

終戦後、中国の正式な政権は国民党率いる中華民国(台湾)とされ、国連の常任理事国もつとめていた

アメリカも、72年まで、国交を断絶しており、その間、30年ちかく、アメリカにとって中国の正式な政府は台湾(国民党)だった

2つの中国への配慮から、成田空港からは大陸便が、羽田空港から台湾便が就航していた。当時、羽田からの国際便は台湾だけである

 

中国側でも日中戦争の終結を、「抗日記念」と呼ぶことが多いようです。

これは「戦勝」とはいいにくい歴史の背景があってのことです。

毛沢東も、日本を追い出したのは国民党であることは承知しており、大規模な祝典や、おおげさな非難はしていなかったことが知られています

 

たとえば、日本の天皇に対しても、日本共産党の代表だった野坂参三からの書簡で「天皇制の問題は、戦後儘速(迅速)に人民投票によって決定される」という投票による天皇制容認の草稿を用意していたものを、毛沢東からは「『儘速』の二文字は削除できると思われます」「私は、日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期のうちにできるものではないと推測しています」とさらに慎重な態度を取っています。他、多くの言葉をのこした毛沢東にあって、戦後日本の天皇制を批判した資料はみつかっていません。

 

1964年7月、日本社会党の訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返しています。

 

1970年代にある幹部が日中戦争のとき「漢奸」(日本軍に協力した)と告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人はわが救命恩人だ。命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と笑ったそうです。

 

毛沢東の死後、中国はそれまでの政策を変換し、共産国家でありながら、資本主義をとりいれる1国2制度を打ち出します。

そして、猛スピードの成長をとげ、2000年代には、日本をぬき世界第二位の経済大国に成長、毛沢東のいう「便法」に満ちた政策の数々は、先進国にはマネできない独特のスピード感と、したたかさに溢れています