海の上の武士道 工藤俊作中佐

 

 

 

 

 

 

 

 「一番砲だけ残し、総員漂流者の救助に当れ!」

 

 

 

 

 

 

工藤 俊作(くどう しゅんさく)

生誕:1901年(明治34年)1月7日

死没:1979年(昭和54年)1月12日

 

日本の海軍軍人、最終階級は海軍中佐。1942年3月、駆逐艦「雷」艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として有名である

 

戦後、工藤は故郷の山形で過ごしていたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移った。1979年に胃癌のため死去。生前は上記の事実を家族にも話さなかった。これは「雷」が1944年に沈没して多くの乗組員が犠牲になっており、その自戒の念から軍務について家族にも黙して語らなかったものと思われる。遺族がこの話を聞いたのは助けられた元イギリス海軍士官、サム・フォール(英語版)元海軍中尉からである

 

■工藤中佐とは?

身長185cm、体重95kgといった堂々とした体躯で柔道の有段者であったが、性格はおおらかで温和だったと言われています。そのため「工藤大仏」というあだ名で親しまれていました。海軍兵学校時代の校長であった鈴木貫太郎の影響を受け、艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔て無く接していた事から、工藤が艦長を務めていた際の艦内は、いつもアットホームな雰囲気に満ちていたという。決断力もあり、細かいことには拘泥しなかったので、部下の信頼は厚いものでした。戦後は海兵のクラス会には出席せず、毎朝、戦死した同期や部下達の冥福を仏前で祈ることを日課にしていたそうです。

 

工藤の人柄をしめすエピソードとして、高松宮宣仁親王が長門乗務の時、階段で転んで足に怪我を負い、艦内で草履を履くことになった際、大正天皇のお見舞いに行くことになったが、「さすがに草履というわけにはいかないのでどうしようか」と周囲に相談したところ、宮の心中を察した少尉の1人が「私のクラスに大足の大男がいます。奴の靴を借りましょう」と靴を借りてきた。それを宮が履いてみたところ包帯で巻かれていた右足はピッタシだったが左足はダブダブだった。「仕方ないので左は自分の靴を履いていくことにする」と左右全く大きさの違う靴を履いて天皇をお見舞いしたそうです。「上手く行った。御殿の人間にも侍従にも全くバレなかった」と宮は大喜びしたという。その少尉は「それでは奴に酒をおごらないといけませんな。奴は酒好きですから」と言ったので3人で宴会となり、後に同期全員で大宴会となりました。最後は「殿下のツケでお願いします」となり宮が酒代すべてを支払うことになったというエピソードがのこっています。この少尉の言う「大足の大男」で「酒好き」の「奴」こそ、少尉時代の工藤俊作でした。

 

 

■捕虜の扱い・・・

 

生死を喫する戦場では、交錯する命のやり取りのなかに奇妙な友情が生まれることがあります。さっきまで殺し合っていた敵であっても、息絶えそうであれば助けることもあるし、捕虜として命を保障し尊厳を守ることもその1つです。

 

命を削った仲だからこそ分かる「友情」がそこにはあるのかもしれません。

硫黄島での戦いでは、日米双方の激闘を終えたころには、生き残った日本兵に最大限のリスペクトが捧げられたそうです。

 

国は捕虜に対して国力なりの食事を与えるのは国際法で決まっていました。捕虜の虐待は条約違反です。

 

日本はこれに困りました。ただでさえ国民すらも食えない状態なのに捕虜などに米を食べさせられますか?

日本は日本なり敬意をはらいましたが、戦後、戦勝国から捕虜の扱いに嫌疑をかけられ多くが罪に問われ投獄されることになります。たとえば、日本の伝統食材であるゴボウを捕虜に提供したところ、戦後、木の根を食べさせられたと訴えられたケースもあるそうです。

 

「捕虜に優しく」するという尊厳を国際条約には、「市民の命を奪わない」という条項もあります。

捕虜への待遇で罪に問われるならば、おなじように一般市民の命を奪った、広島・長崎の原爆。そして東京大空襲の是非は問う必要があるのではないでしょうか?

戦争は、そうしたいくつもの矛盾をはらみながらも、今日も地球のどこかで続いています。

 

日本は日清戦争の清国軍捕虜、日露戦争のロシア軍捕虜、第1次大戦のドイツ軍捕虜を、国際法に則って非常に丁寧に扱っていました。 日露戦争時に大規模な捕虜収容所があった愛媛県の松山俘虜収容所の話は有名で、投降して来たロシア兵は降伏の意味で「マツヤマ」を連呼したと伝えられています。
また、1次大戦時の徳島県の坂東俘虜収容所でドイツ兵がベートーベン交響曲第9番(第九)を収容所関係者に披露した逸話は映画化されています。

大東亜戦争当時の捕虜の扱いですが、戦場が広大で捕虜の数も万単位であり、輸送の車両が絶対的に不足したこと、戦地・内地問わず食糧衣類燃料などの物資が不足がちであったこと、戦陣訓の影響も有り、日本兵が捕虜になった場合の教育や、敵兵を捕虜にした場の取り扱い方の教育もまともに行われていなかったこともあり、現場単位で様々な解釈のもと運用されました。
 
ただ、連合軍側も捕虜の扱いが適正であったかと言えば、アメリカ兵に捕虜になった日本兵も虐殺された例や、アメリカ・オーストラリア連合軍兵士の投降日本兵の扱いは英語を話せる者は捕虜に、話せない者は殺すといった話も伝えられています。

また、1944年のレイテ沖海戦では、歴史書には「アメリカのオルデンドルフ艦隊が沈没現場に浮いていた多数の日本海軍将兵に救助の手を差し伸べたが、ほとんどの日本兵は救助を拒否して十数人ほどのみが救助された」と記されています。
ただ、これは勝利者が都合よく書いているだけで、実際には漂流日本兵を銃撃したり、サメに襲われているところをゲラゲラ笑いながら見殺しにしたりと、かなり醜悪なことをやっていたとの後日談が伝わっています。
  

戦場でおこることのほとんどは、平時では理解できないもの、日本側も連合軍側も過酷な戦場心理に陥れば、互いに残虐行為は行ったのです。

敗戦後に日本軍将兵は、連合軍側から一方的に戦争犯罪を裁かれますが、まともな証拠もなしに処刑された事例は枚挙に暇が有りませんし、勝利者側の戦争犯罪行為がほとんど不問とされている事実は日本人として肝に銘じておくべきです。

 

 

■海の上の武士道 工藤中佐の英断

 

世界に誇る日本人の姿

日本海軍の駆逐艦「雷」は海面に浮遊する大勢の英国兵を発見した。敵潜水艦の哨戒海域で長時間の停船がもたらす危険は承知の上での艦長・工藤俊作中佐の決断であった。戦いが終われば敵も見方もない。「一番砲だけ残し、総員漂流者の救助に当たれ」と命じたのです。

 

世界に誇れる素晴らしい日本人がかつて存在していました。

工藤俊作という方をご存知でしょうか。

 

大東亜戦争中、ジャワ海の制海権争奪に敗れた米英豪連合軍艦隊の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域からの脱出をはかった。昭和17年3月2日午後2時頃、2隻の英海軍艦艇は、インド洋への脱出を試みてジャワ海北西海域において日本艦隊に捕捉され相次いで撃沈された。 

 

英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員は21時間に亘って漂流 

両艦の乗員合計約450人は脱出し漂流を開始するが、約20時間近く経過した翌3日、午前10時頃には生存の限界に達していました。 

  

偶然近くを通りかかった日本海軍の駆逐艦「雷」乗員は全部で220名。なんと敵将兵は450人以上が浮游していたのである。

 

さらにこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しいものでした。  

命の危険をさらし敵兵を救助するという艦長の判断に、『艦長はいったい何を考えているのだ!戦争中だぞ!』と批判の声が出たそうです。

  

英米による石油禁輸措置によって石油が乏しい日本国にとっては、発進・停止を繰り返す救助活動は、その後の戦闘行為を不可能にする事になります。 

 

 

「1番砲塔だけ残し、水兵員、溺者救助用意」 

艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入しています。

  

マストに『救難活動中』を示す国際信号旗を掲げます。 

英国海軍400名を確認した『雷』の工藤俊作艦長は、敵潜水艦の音響の有無を再三に渡って確認させ、その上で、『敵兵を救助する』と号令し、マストに『救難活動中』を示す国際信号旗を掲げました。 

 

英海軍将兵たちをロープで固縛し艦上に引き上げたます

英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。 

 

工藤艦長の駆逐艦「雷」は、危険を承知で敵兵の救出作業を開始しました。彼は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」という、極めて異例の命令を発しました。「雷」に殺到する英国兵士。

  

ここで下士官数名が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。 

救助した英兵を貴重な真水で洗い、衣服まで提供して工藤艦長はこうスピーチした。

 

 

諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである

 

救助された英兵達は思わぬ厚遇と敵将のスピーチに感嘆します。

そもそも英国海軍の規定には、危険海域における溺者救助活動では、『たとえ友軍であっても義務ではない。』としています。

それが敵兵である自分達を、戦域での危険を顧みず救助し、衣・食を与え、敵国の病院船に引渡しまでしたのだから、英兵達の感激は当然と言えるだろう。

 

存命者からの感謝と名誉回復

「駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです」 

 

戦争が終わり長い時が流れた平成8年、工藤中佐によって助けられた422人の一人、英兵のフォール氏は『マイ・ラッキー・ライフ』を出版 

『この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた大日本帝国海軍中佐・工藤俊作に捧げます。』 と、書き、いままで歴史の中に埋もれていた工藤の功績を浮かび上がらせます。 

出版時には、工藤は死別しており、また存命中も、事件の詳細を語らなかった工藤を、著者のフォール氏は見つけることができなかったそうです。念願であった工藤との対面はならなかったものの、『自分が死ぬ前にどうしても一言お礼を言いたかった。一日として彼の事を忘れた事はありません。』と強調しました。

 

未来に伝えたい工藤の生き様

工藤は海上自衛隊や、クラスが在籍する大企業からの招きも全部断わっています。さらに戦後のクラス会にさえ出席しようとしませんでした。工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや、部下の冥福を祈って仏前で合掌することから始まっていました。楽しみは、毎晩かよ夫人に注がれる晩酌と、毎月送られてくる雑誌「水交」に目を通し、先輩、後輩の消息を知ることであったそうです。

   

昭和54年、七八歳の生涯を静かに閉じました。 

 

工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。日本海軍伝統のサイレント・ネービーを忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのでした。 

  

工藤中佐の生き様は、海の上で武士道を貫きとおした感があります。

海の上のジェントルマン。命が錯そうし矛盾に満ちた戦場であっても、立派に生きることを選んだ英雄が日本にはいました。なくなった命を復活させることも、時計の針をもどすことはできません。ただしあの時代を「教訓」とすることはできるのではないでしょうか?工藤中佐の半生に今一度哀悼の誠をささげ、またこの精神を語り継ぐことで、次代への教訓とすることを誓います。 

  

 

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コメント: 1
  • #1

    隊長猫 (水曜日, 09 5月 2018 06:06)

    こうありたい理想像だな