明治天皇と大御心(おおみごころ)

 

 

 

 

 

 『たらちねの 庭のをしへは せばけれど 広き世にたつ もとゐとはなれ』

 (明治天皇御製)

 

 

 

 

明治天皇

生誕:嘉永5年9月22日(1852年11月3日)

死没:明治45年(1912年)7月30日)

 

日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。

 

明治天皇は、100名をこえる歴代の天皇の中でも劇的な変化のなかで御世をおくられました。源頼朝によって、開かれた武士政権は、足利氏、徳川家と引き継がれるものの、600年ぶりに大政奉還されることとなります。また、桓武天皇が奈良から京都に都をうつされたのが794年。実に1000年ぶりの本格的な遷都を経験された天皇にもなりました

 

それまでの歴代の天皇様は、京都の御所からおいでになることもなく、その生涯のほとんどを御所内ですごされています。また人民との交流はもちろん、直接顔をうかがえる臣下も一握りで、今上天皇さまのように被災地に慰問をされる姿や、また国民にきさくに手を振ってくださる姿などと比べると、隔世の感があります。

 

明治元年、明治天皇は京都から東京に行幸にでます。この行程は23日間かけて約3,300人が移動したと伝わっています。そして明治5年には日本発の鉄道が敷設。同23年には愛知県で陸海軍の合同演習が行われ、天皇は東海道本線に乗って移動されたことが記事になっています。わずか20年の間に、23日が半日に、移動の手段は徒歩(御輿)から鉄道に、明治という時代の革新性を感じるエピソードです。

 

ちなみに東京への遷都は、正式な手続きをへたものではなく、公式には「ちょっと出かけてくる」(行幸)という扱いになっています。京都の方がいう、「天皇さまは旅に出ているだけ」というのも方便ではないようです^^; 

 

西洋化がすすみ、国民の生活も激変するなか、皇室もまた新しい姿を国民に示してくださいました。いまにつづく開かれた皇族の姿をおつくりになられたのが明治天皇さまであり、また新しい時代の波にとまどう国民に対し、精神的な支柱となりつづけたのもまた明治天皇さまだったのです。

 

■明治という時代 

明治維新は、嘉永六年の黒船来航に始まり、明治38年の日露戦争勝利によって世界に日本の在り方をしめし、明治45年の明治天皇の崩御によって終っています。
 

明治天皇、そして臣下の薩長の武士たち、そして敗軍となった徳川家まで含め、明治維新は、国家の存続のための革命でした。仮に、明治維新が為されなければ、日本は、欧米列強に苦渋をのまされ植民地とされたことでしょう

 

1800年代の世界は、暗黒の世紀です。帝国主義の全盛は、民族の自治をうばい植民地が加速していきます。欧米各国は、無慈悲に国をうばいあい、完全に独立を保てた国は、アフリカでは、エチオピア。ユーラシアではタイ。そして日本だけが尊厳をまもることができたのです。アメリカ大陸では、数百万、一説には数千万人をこえる被害のすえ、白人が統治する国だらけになっていた、そんな時代だったのです。

 

そんな滅亡を回避し、国家を存続させるために、幕藩体制から脱却し近代国家体制に転換する明治維新が敢行され、日本は奇跡といわれた近代化を成功させました。その中心にはたえず明治大君の大御心があったのです。

 

 「坂の上の雲」(著:司馬遼太郎)より

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。 産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。

 

明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。たれもが「国民」になった。

不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。

 

社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、教師にも、軍人にも、成り得た。この時代の明るさは、こういう楽天主義(オプティミズム)から来ている。

 

今から思えば、実に滑稽なことに、コメと絹の他に主要産業のない国家の連中は、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。 財政の成り立つはずがない。が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは、元々維新成立の大目的であったし、維新後の新国民の少年のような希望であった。

 

この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれない。が、ともかく我々は三人の人物の跡を追わねばならない。四国は、伊予松山に三人の男がいた。この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるに当って、勝利は不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇跡を遂げた。もう一人は、俳句短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、 その中興の祖となった俳人・正岡子規である。

 

彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。上って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう

 

 

■天皇さまの大御心

  

たらちねの 庭のをしへは せばけれど 広き世にたつ もとゐとはなれ

 

意訳:

父母の教育 を受ける家庭という場はとても狭いかもしれない。しかし子がやがて成長し広き世に出る 時に父母の教育は広い世間に立つ礎となるであろう

 

明治天皇をはじめ、今上天皇(平成天皇)さま、そして歴代の天皇陛下は、多くの和歌を詠まれています。

天皇のおもゐは和歌となって今に伝えられ、連綿と積り重なる皇室の皆様からの日本国民に対するおもいやりは、ながく私たちの営みをみもってくださっています。

 

幕末動乱の時代にご降誕され、お若き頃より明治日本の中心となられた明治天皇は、やがて欧化に流れ、西洋の文物ばかりが価値あるものとされる世の風潮に疑問を抱かれます。

 

「伝統あるわが国のかたちとは、いかなるものか。そして新しき世に、天皇はいかにあるべきなのか」

その内なる問いかけに真摯に御心を砕かれ、到達されたご境地が、先の御製に象徴されるものでした。

 

「洋才も必要ではあるが、日本人には長い歴史と伝統に育まれた、世界に比類なき

『和の心』『まことの道』というものがある。

それを変えることなく、大切に守るべきではないか。 

そしてそのためには日々心を磨き、国民に向けて、日本人のあるべき姿を体現できるよう、

自ら率先して努めねばなるまい」

 

そうしたご決意のもと、明治天皇は常に「公」を思い、「私」を無にして、国家の規範としての憲法の制定や、国民の道徳訓としての教育勅語を発せられ、日本と日本人を導かれたのです。

そうした明治天皇のお姿は、日本人にとって、 困難な時代に行く手を指し示してくださる光明を見る思いであったことでしょう。

 

 

最後に、明治天皇の大御心のつまった御歌を添えさせていただきます

 

たらちねの 親につかへて まめ なるが 人のまことの 始なりけり

 

明治という時代は、争うように新しい技術、新しい戦いに明け暮れた時代でもありました。多くの政治家、多くの国民が明日の暮らしをすこしてもいいものにするために、奮闘するなか、明治天皇だけは、100年後、1000年後の世界を見据え、示唆に富む多くのご助言を国民に発せられています。

 

鉄が大事、鉄道が大事、石炭が大事と、国富強兵にまい進する明治という時代、明治天皇さまは、国家の元は、鉄でなく「ひと」であり、そして「ひと」の元は、「親」であることを諭されていたのではないでしょうか?