中国・明 『皇明祖訓』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 

朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。

 

朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。 

 

■「皇明祖訓」(こうみんそくん)とは?

皇明祖訓(こうみんそくん)は、明の太祖朱元璋によって編纂された皇帝となるべき子孫への訓戒である。

 

洪武六年(1373年)に祖訓録として分布され、洪武二十八年(1395年)の九月の再改定を期に「皇明祖訓」と改題された。全十三章によって構成されており、全文が四庫全書に掲載されている。主に明朝の基本的な政治方針、礼制、皇族の処遇について述べたものであり、明が滅亡するまでの間不磨の大典として尊重された。

 

中国歴代王朝を通観したとき、皇位継承問題がそのまま政治に影響する事が少なくない。皇帝や皇位継承者の不在はそれだけで問題であり、ましてや皇帝権力が非常に強化された明代においてそれは即政治的空白を意味し、より深刻なものになったと言える。

 

「皇明祖訓」をみると、皇帝、そしてその家族までも祖訓に従うよう様々なケースにわけて、その手法が示されています。

これは法治主義の原型ともいえ、皇帝が1~10まで好き勝手に政治を行っていた時代と明確に区別される文治の時代の幕開けともいえます。

明は、世界最大の帝国となった元を倒して作られた王朝です。元時代の悪習や反省がこの時代の教訓として国造りに反映されていることがわかります。

 

 

序言 

太祖が貧困から身を起こし皇帝となるまでの経緯と、その経験を基にした子孫への訓戒からなる。

 

箴戒,(後に祖訓首章と改められる)

入墨刑・肉刑等の身体を毀損する刑罰の禁止

明朝における丞相設置の禁止

皇族が罪を犯した際の処罰規定

明を囲む四方の国(朝鮮、日本、琉球、台湾、安南等)への不征方針

皇帝は身を慎み国政を行い、かつ自身の身分を窺う者への警戒を怠らない事

親王は祖法を守り、皇帝との間の親の義を失ってはならない

 

持守

正・後宮の各后に対しては、特定の言のみを受け入れてはならない

 

厳祭祀

天地、宗廟、社稷、歴代帝王、孔子を祭る時期と方法について

 

謹出入

皇帝が外出した際の危険や、その対策について

 

慎国政

皇帝は特定の人物の言を受け入れず、百官の言をよく聴き、口だけの人物を偏愛しないこと

特定の大臣を賛美するような上奏を臣下に提出させてはならない。これを以って王莽が漢を簒奪したような事態を防ぐ事。

 

礼儀

親王との関係や、その儀礼に関する規定

子孫各代が使用するべき名称(皇帝の嫡流や諸王家の一代につき一字つけうるべき20の字について)

 

法律

皇族に過失があった際の処罰規定

 

内令

后妃に関する支出については、帳面をつけなければならない

后妃が外の政治勢力つながり政治に干渉することは許されない

宮廷で使用するのは良家の子女に限り、かつ大臣が献上した者や娼妓出身の者を近づけてはならない

 

内官

宦官の官職とその職制表について

 

職制

封爵時に授けるべき物品についての規定

皇族男子の封号名称について

皇族を管理する宗人府の設置について

親王家にて用いるべき官吏と派遣について

王府にて設置される官職と等級について

指揮使司と設置すべき官職について

 

兵衛

親王が指揮できる兵数や練兵を実施すべき時期の規定

 

営繕

諸王の宮殿は自身の格式に沿うように作り、身分を超えた宮殿に住む事は許されない(ただし燕王府については元朝の皇宫を使用しているので例外とする)

各王の封地すべき位置

皇帝と諸王は離宮等を作り無暗に滞在する事を禁止する。

 

供用

親王が支給されるべき俸禄について

親王の具体的な俸給内容

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。

 

朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。

 

朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。紅巾の乱の指導者の1人として頭角を現し、後に明を築き上げることになります。(1368年)

 

この朱元璋という人は、幼少期は元の支配下にあった江南で貧しい暮らしを強いられていました。しかし、モンゴル人支配に不満をもつ人たちと共に立ち上がり、各地で元軍を撃破!やがて乱の中でも頭角を現していき1368年に明を建国してからは、洪武帝(こうぶてい)として即位します。

 

この洪武帝が行った政治は、まず皇帝1代につき1元号とする一世一元の制を定めます。これは、皇帝が存命中は年号を変えない。つまり、明治以降の日本と同じですね。これにより、皇帝の権限強化に努めます。

 

また、農民の数を正しく把握する為に土地台帳や租税・戸籍台帳を整えました。土地台帳では、誰がどれだけの土地を耕しているのか?戸籍台帳では家族の人数、氏名などが記されていました。

 

この洪武帝の死後は、第2代皇帝として建文帝が即位します。しかし、靖難の変といわれるクーデターにより朱棣という人物に皇位を奪われてしまいます。(※ちなみに、この朱棣という人は洪武帝の第4子。建文帝のおじ)

 

その後、朱棣は永楽帝(えいらくてい)として即位し、明はもっとも安定した時代を迎えることになります。

 

永楽帝は、自ら軍隊を率いて遠征し、モンゴル系部族に対して攻撃をします。また、ベトナムにあった陳朝(ちんちょう)という王朝が滅びると、この混乱に乗じてベトナムも支配。また、1405年からは鄭和(ていわ)という人物に大艦隊を率いさせ南海大遠征に向かわせました。その船は、長さ150m幅60mほどもあったといわれ、この巨大な船でインド西岸からペルシャ湾あたりまで。別部隊にはアフリカ東海岸やアラビア半島まで向かわせました。

 

これにより、明は積極的な対外政策を行います。つまり、この遠征は征服が目的ではなくて、明王朝の圧倒的武力を見せ付けて南海諸国に朝貢を促すのが目的だったのですね。

 

しかし、1424年永楽帝が亡くなると明は衰退に向かい始めることになります。北虜南倭(ほくりょなんわ)といわれる外敵に苦しめられるのですが、この北虜とは北方からの異民族。モンゴル系の民族です。その中のオイラートという部族のエセンというリーダーに明の正統帝(せいとうてい)が捕虜になるという大事件が起きます。1449年のことで、この事件により明の威厳が大きく失墜することになります。

 

また、南倭とは海賊です。これは一般的に日本人の海賊を指しますが、16世紀後期には中国人の密貿易者の割合の方が多くなってくるようです。

 

そして1590年代には明は短い期間に3つもの戦争にて出費がかさむことになります。

1592年には「ボハイの乱」、そして同じ年豊臣秀吉による朝鮮出兵。これにも明は援軍を出します。1597年には「播州の乱」。

 

 さらに宮廷では、派閥争いにより混乱。

 そして、1644年には農民反乱軍によって北京を攻略され、明最後の皇帝、崇禎帝(すうていてい)が自害し明王朝は滅びることになります。