チンギス・ハンの言葉

 

 

 

 

 

「人間の最も大きな喜びは、敵を打ち負かし、これを眼前よりはらい、その持てるものを奪い、その身よりの者の顔を涙にぬらし、その馬に乗り、その妻や娘をおのれの腕に抱くことである」

(チンギスハーンの言葉)

 

 

 

 

 

 

 

チンギス・ハン

生誕:1162年頃?

死没:1227年

 

モンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服して、最終的には当時の世界人口の半数以上を支配する。人類史上最大規模の世界帝国、『モンゴル帝国』の基盤を築き上げた。漢字では成吉思汗と表記される。もとの名はテムジン。

 

■チンギス・ハンの言葉

  

「荒ぶる敵には、鷹の如くに」 

 

・「次に来る旅人のために、泉を清く保て」 

 

・「人間の最も大きな喜びは、敵を打ち負かし、これを眼前よりはらい、その持てるものを奪い、その身よりの者の顔を涙にぬらし、その馬に乗り、その妻や娘をおのれの腕に抱くことである」 

 

・「我が身を治めるなら、我が心から修めよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13世紀初頭、突如として世界に登場したモンゴル帝国。

彼らは世界最強の騎馬軍団を率いてユーラシア大陸を席巻し、最盛期には当時知られていた世界の7割を支配下に治めていたと言う。

しかし世界最強を誇ったモンゴル帝国も分裂、衰退していくこととなりました

 

 ■なぜこれだけの国を支配できたのか!?

モンゴル帝国があれほど繁栄し得たのは、イスラム商人の存在を抜いては語れない。

彼らは大陸の東西交易の独占を目論見、様々な形でモンゴル帝国に貢献してきた。

やはり交易路の途中に国家がいくつもあると、税金がかかったり、

国家間の戦争などでうまく交易できないことも多い。

そこで、モンゴル帝国という存在に目をつけ、「自分たちの利益のために」

モンゴル帝国に協力した。

 

モンゴル軍の総兵力は、意外にも十万程度だったみたい。

もちろんチンギス・ハンの時代ね。

少数精鋭で高速機動を生かした戦術を立てていたと推察できる。

補給は羊を一緒に連れていったため、羊の血でのどをうるおし(今のモンゴルでも一般的に飲まれる)、羊毛で衣類等を作り、羊肉を食べたりしていたので

それほど問題にはならなかっただろう。現地調達もあっただろうし。

 

死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神となり、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている

 

13世紀のユーラシア大陸では、東では南宋、西夏の対立が続き、西の方では十字軍とイスラム勢力が争っていました。

 

 こららの争いは、それぞれの国の勢力弱体のみならず、東西を結ぶシルクロード周辺の国々の国力が低下にも結びついていくことになります。シルクロード周辺の国は商業を中心とする国が多かったため、東西貿易が自由に行えないということは経済に深刻な影響を与えていたのです。

 

 そんな時に現れたのがモンゴル帝国でした。

 

 このモンゴル帝国の歴史は、モンゴル系部族あるいはトルコ系部族の一部をテムジン(後のチンギス=ハン)がまとめ上げたことに始まります。

 

 テムジンは1206年、部族長会議の決定によりチンギス=ハンの称号を受け取ることになります。ハンとは、遊牧騎馬民族の間で最高権力者を意味し、漢字では「汗」と書きます。このハンにテムジンが即位したことによりモンゴル帝国が成立しました。

 

ところで、モンゴルの領土を次々に広げるその軍事力。その強さはどこにあったのでしょうか。まず、先ほどの千戸・百戸制に見られるような、統率に優れた組織です。それから、忘れてはいけないのが馬。モンゴル兵は、一人が5、6頭の馬を引き連れて進軍します。1頭が疲れたら次の馬に乗り換えます。ですから、機動力がすごい。防御側の偵察がモンゴル軍を発見して、都市の防衛を固める前に攻め込んできます。

 

 それから、モンゴルは抵抗する勢力・都市に対しては徹底的に虐殺をします。モンゴルは強くて野蛮だと、周辺に知らしめ、そして戦う前にして降伏してくるような状況を作りました。降伏し、素直に従えばモンゴルは一切危害を加えません。

 

 こうして、チンギス=ハンは東西にまたがる大帝国を築き、またシルクロードの交易を保証することで、人と物の流れが活発になり、世界を1つにくっつけたのです。世界史史上まれにみる大帝国をつくるものの、その支配は80年と短いものとなりました。しかし、その足跡は経済の面、文化の面で計り知れない影響を、今に伝えています。

 

毛虫にとっては1つのキャベツが世界の全てだ」(ユダヤ人の諺)

チンギスハンの登場まで、世界はそれぞれの地域、それぞれの民族が互いに障壁をつくり、それぞれのキャベツの中で暮らす世界でした。しかし東西にまたがる大帝国は、地球を1つのキャベツにしたのです。

 

21世紀をいきる我々も、チンギスハンのつくったキャベツの上で生活しているすぎません。

大帝国をつくり、贅沢の限りをつくし、また世界中の美女という美女を抱きまくった偉大なるハン(王様)の生涯にあっぱれです^^

 

 

■世界帝国の終焉の物語

世界帝国の終焉は、内紛と反乱によって招かれました

チンギスハン亡き後、その子供達を王家として5つの国ができました。モンゴルと中国を支配下に置く本家の元という国。中央アジアのオコダイ・ハーン、ロシアのキプチャク・ハーン、ペルシアのイル・ハーン、ホラムズのチャガタイ・ハーンという国々です。これらハーン4ヶ国は本家の元に臣従はしますが、実質的には独立国でした。

 

そして兄弟たちは、抗争と対立を繰り返したのです。また各王家内でも内紛がおこったりしました。これは本家の元でも同じで後継者を巡って内乱が起きたりしています。内紛、内乱が収まると外征に出る。この繰り返しでした。それがモンゴル帝国五代80年の歴史でした。

 

飽くなき戦争と重税で、モンゴル支配下の人々は苦しめられ、反乱が数多く起きるようになります。中国でも反乱が多発、多くの人が独立を勝ち取ろうと立ち上がりました。その中の一人、朱元障という人物が反乱軍をまとめモンゴル軍に戦いを挑み勝利します。そして中国を開放、独立を取り戻し、明という国を成立させたのです

 

徳川家康は、息子たちへの訓戒として次のような言葉を遺しました

平氏を亡ぼす者は平氏なり。鎌倉を亡ぼす者は鎌倉なり。」

どのような結果であれ、起こることはすべてその主体(人だったり、組織だったり)の行動が帰結したものに過ぎません。歴史的みれば、平氏を滅ぼしたのは源氏、 源氏(鎌倉)を滅ぼしたのは北条氏となりますが、獅子身中の虫、世界一のモンゴル帝国を滅ぼしたものは、チンギス・ハンの跡をたくされた息子たちの小さなまだかまり(身中の虫)だったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■世界最強のモンゴル軍を打ち破った鎌倉武士の奮闘

 

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)

 

特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった

文永の役・弘安の役での元寇といえば、高校の教科書でも、神風が吹いて日本は辛くも救われたとの記述が多い。

 

しかし、実際は勇猛果敢な鎌倉武士が、元軍を圧倒し、その日本上陸を許さなかったと言うのが史実に近い。 

実際、文永の役(1274年)でも、神風が吹いたとされているが、その月は新暦では11月後半、この季節日本に台風はほとんど来ない。

 

事実、元寇の基礎資料「八幡大菩薩愚童訓・筑紫本」には、一夜明けたら大艦隊が消えていたとの記述があるだけで、台風によるものとのは書かれていない。

 

また、蒙古側の史料「元史・日本伝」にも、矢が尽き統制が取れなくなったので撤退するとあるだけである。 

そこには、暴風で船が沈没したとか、数万もの元軍の水死体が波打ち際に打ち上げられたとの記載はない。

 

文永の役では、多少の暴風が吹いたとしても、実際にはそれが原因で元軍が敗れたと言うより、数では劣勢だが、勇猛な日本軍を前にして逃げ帰ったと言うのが本当の所だろう。

 

弘安の役(1281年)では、鎌倉幕府軍は博多湾に延々と石塁を築き、二ヶ月もの間、蒙古の本格的な上陸を防ぎ続けたばかりか、果敢に攻めてこない元軍にたいして、痺れをきらせた日本軍は、投鉤や打鉤を元の船団に投げかけ、敵船団に雪崩れ込んで、白兵戦を挑み片っ端から切りまくっている。

 

日本軍の執拗な軍船への夜襲や焼き討ち、船内での疫病の発生もあり、このまま座して死ぬよりはと総攻撃の決意を固めた矢先、台風が発生し、元軍の船舶はことごとく海に沈んだ。

 

ここでも、耳目すべきは暴風よりもむしろ、14万もの元軍を約二ヶ月ものあいだ、本格的な日本上陸を許さず、その侵略をことごとく跳ね返したと言う点であろう。

 

初戦こそは、名乗りを上げて一騎打ちを挑む鎌倉武士に対して、集団戦を駆使し「てつぽう(手投げ弾)」や「毒矢」で攻撃する元軍は、優勢だったに違いない。

しかし、ヨーロッパではリーグニッツでポーランド軍とドイツ騎士団の連合軍を打ち破り、ユーラシア大陸のほとんどを征服した、さしものモンゴル軍も、短弓が何本刺さっても(元軍の矢は日本の鎧に対しては、貫通せず致命傷とならない)平然と白兵戦を挑んで突進し、切れ味抜群の日本刀で、革の鎧などあって無きがごとく切りまくる、勇猛果敢な鎌倉武士に対しては畏怖し逃げまどっている。

 

モンゴル軍何するものぞと我も我もと攻めてくる武士の夜襲を恐れ、船上で夜営をしなくてはならなくなったからこそ、台風でことごとく海の藻屑と成り果てたのだ。もし、元軍の上陸を許し、九州の一部が征服されていれば、神風がいくら吹いたところで、何の助けにもならなかったことは明白だ。

 

元軍を敗退させたのは、決して神風だけによるものではない。

 

 

余談・・・『 日本刀の評価は、元寇や倭寇、秀吉の朝鮮出兵という実戦で、日本刀の実用性が中国の刀剣よりはるかに上を行くことで実証された。触れれば切れ、兜をも両断する「鋭さ」と乱戦で振り回せる「機能」に、中国兵は恐れおののいた。

 

倭寇の鎮圧を務めた武将・威継光は、「日本兵の動作は機敏で、刀が長い。我が軍の剣では短くて接近できず、槍などの長い武器は機敏ではないため、柄ごと一刀両断されてしまう」と、接近戦における日本刀のメリットを語っている。 』・・・「日本と中国・歴史の真実」リュウ・ブックス・アステ新書より。

 

以下の映像は、日本刀と西洋のロングソードとの性能の比較だ。この中で、元軍が装備していたのと同等の革の鎧(かぶと)を日本刀は、たやすく両断している。

 

ちなみに、日本刀はロングソードが切り裂くことの出来なかった、革の鎧や氷をも易々と切断することができるそうです。