美輪明宏と被爆体験

 

 

 

 

 

 

 

 

不幸な家庭に育った人は強く生きる能力を持つ人。あながち不幸ではない』

(美輪明宏 名言集より) 

 

  

美輪 明宏(みわ あきひろ)

生誕:1935年5月15日 

 

日本のシンガーソングライター、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏。

 

長崎に原爆が投下された当時10歳。自宅にいた美輪明宏は無事だった。15歳で状況。17歳当時はお金に困り新宿駅で寝泊りしていた。銀座のシャンソン喫茶で歌手デビュー。絶世の美少年として一斉を風靡する。その後同性愛者を好評したり歌詞に生々しい描写をいれた事により、人気は一旦なくなるが、ヨイトマケの唄で再びブレイク。

 

当時は原爆の後遺症の吐血に悩まされながら作詞作曲を行っていたという。その後俳優やラジオパーソナリティなどを行い、ラジオ身の上相談などは異例の25年という長さで続きました。1971年には本名の丸山明宏から美輪明宏へ改名。その後歌手としてだけでなくテレビ番組でも活躍しています

 

 

■壮絶な被ばく体験

 

一九四五年八月九日、いつもと変わらぬ夏休みの朝だった。

 

美輪さんは、防空ずきんを背にかけ、縁側の机で宿題の絵を描いていた。

 

ピカッ。白い閃光(せんこう)の後、ごう音と揺れに襲われた。

 

お手伝いさんに手を引かれ外へ出た。

 

全身が火ぶくれてうなり声を上げる人。

 

首のない赤ちゃんの上に倒れ込み泣き転げる女性。

 

「助けてくれ」とつかまれた人の手を振り払うと、肉片が自分の腕についた・・・

 

 

美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼ばれた遊郭街で、『世界』という名前のカフェを経営していた。1941年12月、イギリスやアメリカとの戦争体制に入った中で、美輪の父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、カフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業。10歳だった美輪は長崎への原爆投下時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)の自宅におり無事だったが、その後、近くの防空壕で待機した後に、6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする。

 

1945年8月9日、雲一つない快晴の日、10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の万寿姫の絵を描いていた。できあがりを確かめるため、2、3歩後ろに下がった時、原爆がさく裂した。何千ものマグネシウムを焚いたような白い光だった。美輪は雷光かと思い、天気の良い日なのにと不思議に思う。が、直後には世界が息を止めたような静寂に包まれる。その直後に激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。お手伝いに促され2人で布団をかぶると空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こし3人で防空壕に向かうが、景色が一変していることを知る。隣接する劇場は天井が崩れ落ち、勤労奉仕の女子挺身隊の宿舎は形を残していなかった。

 

原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返金を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなったのです

 

 

 

■「ふるさとの空の下で」

ふるさとの空の下で(作詞:美輪明宏 作曲:美輪明宏)

ふるさとのふるさとの 駅に降りたちただひとり 迎える人もないままに 静かな町をコツコツと 歩けば涙あふれでる 幾年前か忘れたが あの原爆の火の中を 逃げて走った思い出が 今さらながらによみがえる・・・

 

HNKの紅白歌合戦で、被爆体験をもとにした美輪明宏さんの歌が話題になりました。

美輪明宏さんが、自身の公式ブログでこの歌をセレクトした理由を以下のように語っています。

引用元;http://ameblo.jp/miwaakihiro-reijin/entry-11736150592.html

  

どうして今回「ふるさとの空の下に」を唄うのかというと、岩手・宮城・福島など東日本大震災で被災し、未だ決着のついていない土地の皆様に勇気を贈ってあげたいから、選曲させていただきました。

 

この歌にはモデルがいます。

戦後、東京から長崎に帰郷する汽車の中で知り合った青年です。彼は島根に学童疎開していて命を取り留めましたが、長崎の原爆で家族が皆死んでしまった。

彼は疎開先でも相当苦労したそうです。叔父がひどい人で、暴力や虐待を受けたとか…でも、この叔父さんが居なくなったら自分は生きていけない、「自分が我慢すれば良いんだ」と心に決めて辛抱していたそうです。 

 

その後、彼はおじさんのところを離れて、東京に出て、工場で働いていました。

焼野原になって家族の墓はどこにあるか分からないけど、一人でも強く生きている、それを家族に伝えるため、故郷長崎に帰郷したいという強い想いで帰るところでした。 

 

長崎に着いてから私も一緒に慰霊塔に行きました。 

このモデルのような戦災孤児や孤独になった人なんて戦後はたくさん居ました。

でも、皆さん強く生き、何とかやっていけるのです!

 

現在は、福島や被災地で未だに苦しんでいる人達に、どんなに辛く苦しい状況でも、しっかり立ち直り生きていくことが出来る、日本人は凄い生命力、復活力を持っている、歴史がそれを証明している、そんなメッセージを伝えたくてこの歌にしました。

 

昨年は「ヨイトマケの唄」で凄まじい反響をいただき、今年もヨイトマケのアンコールが凄く、また、一方で「愛の讃歌」のリクエストもたくさんいただきました。 

でも今、一番歌わなければいけない歌が、この歌なんです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■戦後71年、アメリカ大統領からの追悼は実現するのか・・・

 

広島市で開かれたG7=主要7か国の外相会合に出席し、アメリカの閣僚として初めて被爆地で原爆の犠牲者を追悼したケリー国務長官は会合のあと開いた会見で、「戦争は最後の選択肢でなければならないという議論の余地のない真実を改めて確認した」と述べ、今回の訪問の意義を強調しました。

 

 

アメリカのケリー国務長官は、岸田外務大臣ら各国の外相とともに11日午前、広島市の平和公園を訪れ、アメリカの現職の閣僚として初めて被爆地で原爆の犠牲者を追悼しました。

 

ケリー長官は会合のあとの記者会見で、「広島市を初めて訪れた国務長官として、どれだけ深く感動し、どれだけ誇りに思ったかを表現したい」と述べ、初めての被爆地での追悼を振り返りました。そして、ケリー長官は「原爆資料館への訪問を通じて、戦争は最後の選択肢でなければならないという議論の余地のない真実を改めて確認した」と述べ、今回の訪問の意義を強調しました。

 

そのうえで、「今回の訪問の目的は過去にとらわれるためではない。過去の教訓を、現在、そして未来に生かすことの重要性を確認するためだ」と述べて、今回の訪問はあくまでも平和や核軍縮に向けたメッセージを打ち出すためのものだと強調し、広島と長崎への原爆投下の正当性を巡る議論につながることを警戒していることをにじませました。

 

また、オバマ大統領が広島を訪問する可能性については、「すべての人が広島に来るべきで、アメリカ大統領にもその一人になってほしい。オバマ大統領も訪問を望んでいるが、次の訪日で来られるかどうかは分からない」と述べて、現時点では未定であることを強調しながらも、来月下旬に開かれる伊勢志摩サミットにあわせた訪問を検討していることを示唆しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■知識は過去の産物だが、知恵は未来をもたらす(ラムビー族の言葉)

 

アメリカ軍による広島、長崎への原子力爆弾の投下は、人類に対するホロコーストです。ホロコーストとは、ギリシア語起源の言葉で,ユダヤ教で神に供える犠牲に由来する。転じて全滅、大虐殺の意となりました。ドイツのナチスによるユダヤ人への大虐殺を指すことばとして定着しました

 

アメリカ国内では、この非道な行為を57%の人が戦争を早く終わらせるための止むおえない処置だったという見解をもっているそうです。しかし、この数字は、戦争直後では8割を超えていたもので長い時間が人々に冷静な判断をもたらしていることが分かります。そして30代以下の若い世代では過半数の人が原爆投下を恥じずべき行為だと感じ始めているとのこと。戦後70年以上たち、ようやく人類の「知識」は「知恵」に昇華しはじめました。

 

今回のケリー国務長官の広島への慰問で、テレビの取材をうけたある被爆者は、こんなメッセージを残しました

「謝罪はもういらない、ただ犠牲者に核のない世界を誓ってほしいっと・・・」

 

被ばくという人類が今まで誰も立ち会ったことのない圧倒的な悲劇のなかにあって、日本人の多くは、アメリカをゆるし、そして一所懸命に、それぞれの場所、それぞれの役割を担い、戦後の復興にまい進していきました。

過酷な運命として受け入れる柔軟な心をもった日本人。こうした気質を持つのは、それ歴史が苦難続きの悲しいものであったからなのかもしれないません。日本人は謙虚です。自分たちの苦労をおいそれと表に出そうとしません。むしろ、相手に心配させるのが悪いことでもあるかのように、自分の心の内だけに仕舞っておこうとするものです。

 

まず広島、長崎でおきた悲劇に対し、どちらが悪いとか、だれの責任だという議論は上手に棚にあげておきましょう

そして犠牲者の鎮魂をねがい、また未来にむけ、今をいきる自分が、何ができるのか? それぞれの宿題にしましょう

広島は祈りの場所であり、また人類にとって様々な気づきを与える教場なのです。アメリカ大統領オバマ氏がこの学び舎を訪れることを心中より願うばかりです。

 

知識は過去の産物だが、知恵は未来をもたらす。(ラムビー族のことば)

 

 

■やっぱり見逃せないアメリカ軍による戦争犯罪

 

戦争はあってはいけないことですが、時として国家間に横たわる問題が解決できないとき、武力による衝突が起こります。

ただし、無慈悲に殺しあうばかりでなく、最低限、やってはいけないことを条約に定め、批准した国同士は、この条約を守る義務が発生します。

第二次世界戦時には、ハーグ条約が存在し市民に対する無差別殺戮を禁じていました。また、戦争の目的に不必要な苦痛を相手国の国民に与えることも禁じていました。

 

戦争は、ちゃんとその国の軍服を来た軍隊同士が戦うように国際ルールがあり、民間人への攻撃は禁止、軍服を着用せずに軍隊に攻撃することも禁止で、この行為は国際法違反として処刑されても文句は言えませんでした。

 

しかし、つかまえて裁判するにも警察力としての強い軍隊が必要なので、敗戦国は国際法違反として犯人を拘束して裁判にかけることは不可能ともいえます。こうした理由により敗戦国である日本の政治家、将校、兵士たちが、捕虜への虐待の容疑で、次々と有罪になり、一方、アメリカ軍が起こした、広島、長崎への原爆投下、東京大空襲といった民間人を狙った戦争犯罪は裁かれなかったのです。

 

もちろん日本軍も中国・東南アジアの戦線では民間人を殺戮したことも、あったことでしょう。それは否定できない事実です。

日本軍による真珠湾攻撃では、軍施設内で民間人も働いていましたので、当然ですが死亡者はでています。兵士戦死者2345人の半数近くが、戦艦アリゾナで亡くなり  民間人57名が記録に残っています。 ただし民間人のほぼ全員が基地内で働いていたため巻き込まれたもので、日本軍がハワイの市街地を爆撃したり民間人を狙い撃ちした事実はありません。

 

戦争は悲劇です。攻める方責められる方、両方に正義があります。

 

原爆投下は、まさに広島、長崎市民に対する無差別殺戮でした。一瞬にして、広島、長崎市民を何十万人も殺してしまいました。

 そして、原爆は戦争終結後も市民に放射線後障害、いわゆる原爆症をもたらしました。その被害は放射線に被曝した後、数十年経ってもまだ現れ、今もなお被爆者の方々を苦しめています。 これこそ、戦争が終わっても、戦争被害者が死ぬまで続く、戦争に「不必要な苦痛」以外の何物でもありません。

 

悪いことは悪い。そしてそれで誰かを責めるつもりもありません。

ただし、この悲劇を教訓にし、つぎの時代の財産としないことは犠牲者、そして人類にとっての罪であることは断言できます。

 

広島平和記念公園には、次のような言葉が記されています

 

 安らかにお眠り下さい。過ちは二度と繰り返しませんから

 

いまを生きる我々は、すべての犠牲者のために過ちを起させない行動と、日々の暮らしを立派に生きることが求められているのです。