上杉鷹山 「伝国の辞」

 

 

 

 

 

 

 

 「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」

 

 

 

上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) / 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)

生誕:1751年9月9日

死没:1822年4月2日

 

江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている

 

■上杉鷹山の実績

 

上杉鷹山は宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子となった。

 

上杉家は、義の武将 上杉謙信が事実上の始祖にあたるが、関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封され、さらに3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされてしまった。

 

収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾いた。年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は11万両と2年分近くに達していた。ちょうど、現代の日本のような深刻な財政破綻におちいっていたと言われています。

 

収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少していた。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥っていた

 

「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励した。漆の実からは塗料をとり、漆器を作る。楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れる。桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。

 

鷹山は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあ

ったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この平和の世には、武士も農民の年貢に徒食しているのではなく、「自助」の精神で生産に加わるべきだ、と身をもって示したのである。

 

やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。

家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚えた。

 

この精神は天明の大飢饉の際に大いに役立ち、東北の諸藩で多くの餓死者をだすなか米沢藩は、備蓄米を放出しまた、藩主自ら、倹約につとめ危機をだっしています。

 

米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、そのままになっていた。この福田橋を、ある日、突然二、三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。

 

もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃であった。橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍のくせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業にうちこんだ。

 

やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。そして「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ。」と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は言うまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで、「農民や町人のために」という互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだのである。

 

こうして鷹山の率いる上杉家は、家名をもりたて、江戸時代を代表する名藩としてその名を刻みました。

 

 

■「伝国の辞」と「なせばなる」 

 

伝国の辞(でんこくのじ)は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる藩主としての心得である。

 

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候

一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

 

また、「伝国の辞」と共に、心得として「なせばなる」から始まる有名な歌を申し伝えています

 

生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり

(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん、『書経』太甲下篇)に由来

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ジョン・F・ケネディーが最も尊敬した政治家「YOUZAN」

 

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(英語: John Fitzgerald Kennedy、1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。1962年にアメリカ合衆国通商代表部を創設。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)

 

 

あるとき、ジョン・F・ケネディ大統領に記者団が「尊敬している政治家は?」と質問した。

 

すると、「Yozan Uesugi」と答えた。「Yozan Uesugi??」 

 

その場にいるどの記者も、誰のことか分からず、

日本人記者すらも分からなかった。

 

のちに、米沢藩の上杉鷹山公のことだとわかりました。 

長い間、都市伝説化し真偽のほども分からず否定派が大数を占めるなか、先ごろ駐日大使に就任したケネディの愛娘キャロライン大使は、次のようなメッセージをだしました

 

「父ジョン・F・ケネディ元大統領が、江戸時代の米沢藩の名君とされる上杉鷹山を尊敬し、「あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい」と述べた就任演説に代表される考え方に影響を与えたっと・・・

 

ケネディ大統領が上杉鷹山を尊敬しているだけでなく、あまりに有名な就任演説までも鷹山の影響があったとの告白にただただ驚くばかりです。日本人でも知らない人が多い上杉鷹山ですが、その評価はこれから益々高まることでしょう

 

 

■ケネディーの就任演説

 

And so my fellow Americans, 

Ask not what your country can do for you. 

Ask what you can do for your country.

 

 

それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。 

国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。

 

 

ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節です。

「国があなたに何をしてくれるのでなく、あなたが国に何ができるのか?」

 

この気高いメッセージは、鷹山が示した「自助・互助」の精神そのものです。

 

現代日本の財政危機も、ひたすら景気浮揚のための政府公共投資、福祉充実のための予算膨張と、国民が国からの「扶助」のみに頼ってきたツケがたまりにたまっています。

 

国家という共同体が成り立つためには、その構成員が、それぞれ国家のために、お互いのために何かをしよう、という自助と互助の精神が不可欠です。それがあってこそ、国が成り立ち、その中で国民は自由と豊かさを味わうことができる。ケネディが鷹山を尊敬したのは、自助・互助の精神が、豊かで美しい国造りにつながることを実証した政治家であったことだろうと推測できます。

 

江戸時代、鷹山の掲げた改革に、多くの武士が反発し、とくに重臣たちは御家をとりつぶすほどの抵抗をみせました

現代から見れば、ちょんまげを結った悪代官が、借金で首が回らない状態なのに悠長な抵抗をみせる時代劇のように感じます。しかし、今の時代を100年後の子孫たちが見れば、1000兆をこす借金で首が回らない状態なのに、あれくれ、これ嫌だ、っと文句をいっているだけのような気もします

 

1億総評論家時代といわれるなか、鷹山、そしてケネディの示した「自助・互助」の精神にのっとり、私自身が、そしてあなた自身が何をすべきか?問われる時代に突入しています。

 

「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」(上杉鷹山)

家訓二スト訳:つべこべ言わず とにかくやれ!

 

鷹山先生を見習い、とにかくやりましょう^^

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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