鍋島藩の家訓

 

 

 

 

 

鍋島藩 家訓

「我が気に入らぬことが、我ためになるものなり」

 

 

  

 

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)

生誕:天文7年3月13日(1538年4月12日)

死没:元和4年6月3日(1618年7月24日)

 

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖

 

豊臣秀吉に早くから誼を通じて、島津氏に恭順しつつも裏では九州征伐を促した。この一連の動きを秀吉は高く評価し、龍造寺氏とは別に所領を安堵し、政家に代わって国政を担うよう命じた。そのため、国政の実権は直茂が掌握するところとなった。秀吉からは天正16年(1588年)に政家に対し、天正17年(1589年)には直茂と嫡子の勝茂に、豊臣姓が下賜された。天正16年から龍造寺領国内における支配権を誇示するかのように印章の使用を開始し、自己の権力を確立させる。

 

朝鮮出兵においては龍造寺家臣団を率い、加藤清正を主将とする日本軍二番隊の武将として参加した。この朝鮮出兵を経て、龍造寺家臣団の直茂への傾倒が一層促進された。

 

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、息子の勝茂が当初西軍に属して積極的に参戦したが、直茂は東軍勝利を予測しており、先ず尾張方面の穀物を買い占めて米の目録を家康に献上、関ヶ原での本戦が開始される以前に勝茂とその軍勢を戦線から離脱させている。その後直茂は、家康への恭順の意を示すために九州の西軍諸将の居城を攻撃することを求められ、小早川秀包の久留米城を攻略、次いで立花宗茂の柳川城を降伏開城させた。更に直茂は、他の東軍諸将と共に島津への攻撃まで準備したが、こちらは直前に中止となった。一連の九州での鍋島氏の戦いは家康に認められ、肥前国佐賀35万7,000石は辛うじて安堵されている

 

■家訓の意味

 

「我が気に入らぬことが、我ためになるものなり」

自分の欠点を指摘されるのは聞き苦しいが、気を鎮めて聞けば自分のためになる。と忠告しています。自分に対しての悪声は、たいていの場合、自分の過誤や欠点が指摘されます。謙虚にその言葉をそのまま受け止めるべきか、どうしたらいいのか判断に迷うときもあると思いますが、素直に聞いて謙虚に己を反省した上で、いい勉強をさせてもらったと思えば、成長できる気がします。

耳に痛いことを言う先輩や上司、また家族の情け容赦のない指摘が

辛くなったとき、この言葉を思い出していただければ、気に入らない人物・物事こそが自分を成長させるきっかけになり、プラス思考で考えられる力になります。

 

「上下によらず、時節がくれば家は崩れるものである。その時、崩すまいとすれば、汚く崩れる。だから潔く崩すが良い。そうすればあるいは残る事もあろう。」

 

売上高が減少傾向にあるのなら、先を見据えた計画作成が必要になります。だらだらと続けて少しずつ追い込まれていくと、何も手が打てなくなってしまいます。意識を変えるためにも延命策ではなく、抜本的な改革に着手することで売上高の減少を止めることにつながります。

情がからみできない場合もありますが、延命策では、社員が危機感を持ちません。今まで甘えた体質があり、社員の意識レベルが低下している場合は、何とか今のままで乗り切りたい、今以上に仕事をしたくないという雰囲気が社内にでてきます。

この意識レベルの低下が改革をより難しくさせます。この状態になってしまうと何度議論をしても良いアイデアがでてきません。最初から抜本的な改革を行っていれば良いのですが、なるべく痛みを伴わない程度に収めたいと思うと、改革できないまま売上高が下降していきます。気付いた時には手遅れということがないように、早めの抜本的な改革を考えることが必要になります。 

 

 

■名著「葉隠」を生んだ肥前武士の精神性

 

「武士道とは死ぬことと見つけたり」の有名な一説を生んだ『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめたものです。

 

「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。

 

文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂)様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。

 

当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったことと、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。

 

この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。

 

明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されることとなりました。

 

また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く禁書の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまうことが慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本により読むことが可能になったものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

革命を支えた陶磁器の輸出

 

有田焼(ありたやき)は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器です。その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、「伊万里(いまり)」や伊万里焼とも呼ばれています。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別されます

 

朝鮮出兵の唯一の功績?

16世紀末、豊臣秀吉による慶長の朝鮮出兵の際に鍋島直茂が連れ帰った陶工の李参平によって、有田泉山に磁器原料の陶石を発見したのが有田焼の始まりとされています。このとき白川天狗谷窯で焼かれたものが、日本で最初の磁器です。

 

海外への輸出 

磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止します。このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し大量にヨーロッパへ輸出されるようになります。これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもありました。

  

江戸時代初期にすでに磁器生産を行なっていた有田焼は、江戸時代を通じて国内・国外に広く交易され、佐賀藩の大きな収入源となり、のちの戊辰戦争、明治新政府の設立に大きく寄与することとなるのです。

 

戊辰戦争を勝利に導いた鍋島藩の軍事力 

江戸時代の末期、僅か二十年足らずの間に佐賀藩の軍事力は驚異的に発達強化されていきます。反射炉も幕府より七年も早く完成して新鋭の銃砲を製造。最後には最新鋭のアームストロング砲三門をイギリスから購めた上、同一品の製造にも成功しています。又、軍艦も数隻購入しているほどです。

 

幕末の終期、佐賀藩の軍事力は、当時世界で最強といわれたプロシヤにも匹敵したと司馬遼太郎は書き遺しています。又、閑叟自身が側近に語ったこととして、我が藩は他のどこの藩と戦っても一人の兵を以て十人の敵に対抗出来ると豪語していたという。

 

このためには莫大な資金と武器購人のルートとを要したに違いありません。司馬遼太郎はその金額は年間にして十五万石に相当するとして、その大部分が藩の専売による有田焼の密貿易より得たものと推定している。又、武器のルートは、長崎に常住してその店を事務所として藩に提供していた久富与平と、安政五年から長崎に定着したグラバーとによって形成されたものと想像されます。

 

戊辰戦争において、上野の戦争で幕軍を壊滅させて、幕軍が最後の牙城とした会津若松城を陥落させたのは、アームストロング砲です。又、榎本武揚の幕軍を函館五稜郭で敗って討幕戦を終らせたのも佐賀の海軍であった。この大砲も軍艦も吾が有田の磁器がもたらしたものでした。

 

現在、いまいちパッとしない?佐賀県ですが、江戸時代の繁栄をみると、佐賀県こそが、のちの貿易大国となる日本のプロトタイプだったことがわかります。資源がない国日本、その日本が、生き残っていくためには、貿易で利益をあげること、そのために、品質のいい商品をつくること、何より、「人間」という資源を教育によって磨き上げていくことが大事であることが分かります

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■幕末の佐賀藩(鍋島藩) 

 

佐賀藩は、当時鎖国していた日本にあって、他藩との交流を極端に絶った二重鎖国の政策を貫き、鎖国の中の鎖国と評された国でした。

しかし、幕末の動乱期、名君と誉れ高い鍋島直正の活躍によって、「薩長土肥」と評される勝ち組の藩として歴史に名を刻みました。

 

佐賀藩は長崎に程近いため、幕府より福岡藩と1年交代での警備を命ぜられていたが、その負担は代々藩財政に重くのしかかっていた。文化5年(1808年)、ナポレオン戦争により、イギリスのフリゲート艦が長崎へ侵入してオランダ商館の引渡しを要求するフェートン号事件が起こったが、佐賀藩は無断で警備人員を減らしていたため必要な対策がとれず、その不手際を幕府から叱責される。また1828年のシーボルト台風で死者1万人弱の被害を出し財政が破綻寸前に陥るなど、藩をとりまく状況は悪化しています。

 

10代藩主・直正(閑叟)以降、藩政改革や西洋技術の摂取につとめた。特に大がかりなリストラを行い、役人を五分の一に削減、農民の保護育成、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ藩財政は潤います。 

 

鍋島直正は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発・生産を行い、幕末期における最も近代化された藩の一つとなった。長崎警備を共にしていた福岡藩と共にいち早く牛痘ワクチンを輸入し、嫡子直大に種痘施すことで普及に努め、当時は不治の病であった天然痘根絶を成し遂げる先駆けになりました。

 

嘉永2年(1849年)に日本最初の製鉄所を完成。黒船来航の前年にあたる1852年には築地反射炉を本格的に稼動させています。黒船来航の半年前、プチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港し、模型蒸気機関車を披露した際には、この公開から得た情報を元に精錬方のトップエンジニアである石黒寛次、中村奇輔、田中久重らが蒸気機関車と蒸気船の製造を試み成功し、日本の技術力を誇示し、西欧列強の度肝をぬきました。この蒸気機関車模型は現在鉄道記念物に制定されている他、開発に携わった田中久重は、のちに家電メーカーの東芝を創業することとなります。

 

慶応2年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲をほぼ自力で完成させたと称し、藩の洋式軍に配備しています

 

佐賀藩は、薩摩、長州といった藩ほどの知名度はないものの、どの藩にも負けない確かな技術力で、明治維新を支えた藩となったのでした。

 

■肥前が生んだ多様な人材

 

(参照:「明治という国とかたち」

http://www.webkohbo.com/info3/meiji/hizen_saga.html

 

薩長土肥と言う言葉があります。薩長土は薩摩・長州・土佐であることはお馴染みですが、肥とは肥前佐賀藩のことです。倒幕の時期、肥前佐賀藩は二重鎖国をひいており志士は居ても藩外には出ず、これといって活躍した人物は居ませんでした。しかし佐賀藩は国内に他とない厳しい教育制度を持ち、優秀な人材を抱えていたのです。彼等は倒幕後、明治政府の整備において活躍しました。司馬遼太郎氏の『歳月』を読めば江藤新平ら明治維新に活躍した肥前の人物ことがよく分かります。

 

鍋島 直正
なべしま なおまさ
(1814年~1871年)
佐賀藩主。幕末においていち早く西洋文化を取り入れ、反射炉を建設。カノン砲、アームストロング砲(上野戦争でアームストロング砲の威力は実証された)、蒸気機関車、蒸気船を製造させる。
大隈 重信
おおくま しげのぶ
(1838年~1922年)
早稲田大学創立者。2回の内閣総理大臣、大蔵卿、外務大臣など。キリスト教信者の取り扱い問題を巡って英国公使パークスと激しい論争を繰り広げ、その結果新政府内で認められ、パークスからの知遇を受けた。
副島 種臣
そえじま たねおみ
(1828年~1905年)
明治四年、外務卿。その次の年に人買い船のマリア・ルーズ号事件がおこり、副島は「同じ人間として知らないふりはできない」と言ってこの事件を見事に解決。「正義人道の人、副島外務卿」と、種臣の名前は世界中に知れわたる。兄に枝吉神陽をもつ。
江藤 新平
えとう しんぺい
(1834年~1874年)
初代司法卿。日本初の法制を公布施行し、文明開化の基礎作りに活躍。明治7年征韓論の首領として佐賀の役を起すが、敗れて梟首さる。

 

 

 

その他にも、現在の東芝の創業者にあたる田中久重も、肥前に招かれ頭角をあらわした人物として知られています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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