高橋是清 家訓

 

 

「ダルマ宰相」高橋是清の10家訓

 

第1訓・人生

 人生一寸先は明るい …エピキュリアン(楽天主義者)の勧め 

第2訓・忍耐

 必要以上の我慢をするな …時には堪忍袋の緒を切るべし 

第3訓・女

 心よりまず姿を美しくせよ …女に意見されてこそ一人前 

第4訓・堕落

 ドロップ・アウトこそ人生の楽しみである …堕落してみなければ、本当の人生はわからない 

第5訓・酒

 朝酒、朝風呂、昼寝を心がけよ …禁酒宣言自体、酒に負けている 

第6訓・食

 メシは自宅で食え …弁当は邪道である 

第7訓・努力

 ベストを尽くすな …全力を出さずに手抜きを心がけよ 

第8訓・学問

 役に立たなきゃ学問じゃない …学問を奴隷とせよ 

第9訓・運命

 壁をけとばして棚のボタ餅を落とせ …偶然は作るものだ 

第10訓・死

 最後は裸で死んでいけ …子供に財産を残すな

 

 

高橋 是清(たかはし これきよ)

生誕:1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉

死没:1936年〈昭和11年〉2月26日)

 

日本の幕末の武士(仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任 : 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は大勲位子爵。幼名は和喜次(わきじ)。財政家として知られているため総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い

 

■奴隷生活から芸者のヒモまで、破天荒すぎる是清の生涯

 

酒と女はニゴウまで?・・・豪快すぎる是清の半生

 

仙台藩のながれをくむ、高橋是清は私生児として生をうけ幼い内に養子にだされます。しかしその聡明さが評価され、12歳の時に英学修行の生徒に選ばれ、横浜のヘボン夫妻のところへ送られました。

その後、米国のサンフランシスコに給費学生として渡るものの、うっかりサインさせられた契約書が奴隷になるという内容で、実際その後、農園主のもとで3年間で酷使される生活をおくりました。よく英語がわからないままサインしたのが大間違い・・・。しかし、その後運良く助け出され明治元年に日本に帰国しました。

 

帰国後は、奴隷生活?で身に着けた英語の能力がこわれ教師として採用される。ところがこの頃から悪い遊びを覚え、宴席で大酒を呑む、芸者をあげて大騒ぎする。さんざんな有様で、ついに学校を辞めて無一文になって馴染みの芸者のところに転がり込み、芸者の荷物持ちにまで落ちぶれます。

 

若いうちの苦労は買ってでもしろ!の格言どおり、その後も詐欺にあったり、騙されたり。

しかし、家訓にあるとおり「ドロップ・アウトこそ人生の楽しみである …堕落してみなければ、本当の人生はわからない 」、

ドラマチックで、代えがたい様々な経験がのちの人生で花ひらいていくのです

 

■ダルマ蔵相として庶民の人気に

 

人生の酸いも甘さもよくしる是清は、ずんぐりむっくりとした体形から、「ダルマさん」とたとえられ、人気の政治家になっていきます。

政治の世界では、落ちこぼれを救う会議に出席する人が全員東大出・・・なんてことが起こります。人生で失敗をしたこともない人間に血のかよった政策をのぞむべくもありません。

 

是清は、現場主義の財政政治家として、総理大臣、とくに7回にもわたった大蔵大臣を歴任しています。

その特徴は、現代でも評価される拡大財政で、アベノニクスも是清のとった政策との模倣と示唆されるほどのものです。

ただし、選択と集中という視点もあり、日本の将来をみすえ成長が予想される分野には多額の予算をつける一方、軍部の拡大政策には反対する立場をつらぬき、結果、その反骨心が仇となり、二二六事件では、凶弾に倒れることとなりました。

 

そんな是清が名声をえたのが、1904年に勃発した日露戦争での戦費調達のミッションです。

 

■日露戦争勝利の影の立役者 是清の活躍

 

今から100年前に起こった日露戦争は、日本とロシアの局地戦という以上に、世界史的にみて画期的な戦いとなりました。

この戦いに勝利した日本でしたが、コロンブスの新大陸の発見以後、400年間で、白人に黄色人種が初めて勝った証となったのです

 

この勝利は、人種差別にくわえ、欧米の植民地政策で辛酸をなめてきた多く民族に勇気を与え、のちの独立に大きな影響を与えました。

この日露戦争で、指揮をとった乃木大将、東郷平八郎海軍大将が表の顔なら、ひとしれず戦費調達を成功させた是清は裏の仕事師です。

 

この時の借金の返済は、戦争の終った1906年から、イギリス銀行団とユダヤ人銀行家ジェイコブシフに 戦費の借金返済をし始め、なんと返済をし終えたのが1986年でした。つまり日露戦争の借金を返し終えたのはつい最近だったことがわかります。

また、ロシア帝政の圧政に苦しんでいたユダヤ人と連携をとったことで、日露戦争後、帝政ロシアは崩壊、のちのロシア革命の成功の裏に是清の活躍が関係してしていたとも言われています

 

 

当初想定された戦費は4億5千万円、このうち軍艦など軍備購入に必要な正貨1億円は外国から借入れる他、道はなかったのでした。しかも実際に掛った戦費は膨れ上がり外貨調達の規模は当初目標の8倍の規模になりました。戦争がはじまった頃、欧米諸国では、「豪胆な子供が力の強い巨人に飛びかかった」、「日本の勝算はない」といった見方が多く、外債発行は多難な仕事だと予想されていました。そして松方正義、井上馨等国家財政に責任を持つ元老達は、この任務を遂行できる人物は、当時の日銀副総裁の高橋是清を措いていないと考えていたのです。
 
 こうして高橋は、日銀副総裁のまま財務官として1904年から1907年にかけてロンドン、ニューヨーク、ヨーロッパ大陸を駆け巡り外債発行に携わることになります。

 

是清は、この仕事を通じて、アメリカのユダヤ系投資銀行家として著名なジェイコブ・シフと知り合い生涯の友となるなど、多くの投資銀行家達の信用を勝ち取り困難が予想された外債発行に成功します。この唯一無二の働きで高橋の評価がガラリと変わり一気に政財界の頂点に上り詰めることとなるのでした。
 

しかし、日本は、戦争が終わった翌年には「帝国国防方針」を策定し、陸海軍が競って軍事力の増強に乗り出す一方、国債が増発されて、第一次大戦までの10年間の日本は借金まみれの状態にあったのです。高橋は、こうした状態が如何に危険であるかを理解しており、ことあるごとに財政引締めを提唱してきていました。しかし、高橋が学んだ教訓は正当に評価されることはなく、彼の提言は歴史のなかに埋没し暗い時代に突入していくことになります。
  
 因みに、昭和恐慌以来の不況で疲弊した農村救済問題は、当時政治的な焦点となっていたが、高橋が、蔵相として斉藤内閣の下で実施した農村経済更生政策は、今日から見ても新鮮かつ具体的なものだったと言えます。即ち、財政による救済と相まって「農村漁村自ら奮起し」、「官民一致の協力により、統制ある組織的な農村経済更生の施設を樹立し、これが確実なる実行を期する」としていたのです。

 

その方針は土地の利用配分、労力の利用、農産物の販売、肥料その他農業経営用品の供給改善、農業経営の改善、農業金融の改善、負債整理等々について、農村経済更生計画を樹立させ、これを実施することに拠り自力更生を図らんとするものでしたし、更に農村リーダーを旧来の地主から自作農中堅層に切り替えること、従来の肥料商や米穀商の力を抑制し、産業組合を中心とした経済更生を図るなどの新しい方向が打ち出されているのです。もっとも、これら新機軸は戦争で中断され、戦後になって本格的開花を見る事にはなったと言うものでしたが。
 
また「高橋財政」のもとで推進された産業政策は、円安と相俟って、化学肥料、人絹、工作機械をはじめ電気機械などの分野でも最新技術を導入した新しい産業が次々と登場してきました。不況脱出から次の成長に向かう新たな経済循環がはじまっていたのです。その裏には、高橋の革新的な産業政策思想があったとされるのですが、それは「高橋財政」の成功に貢献したもう一つの要因でもあったされる処です。
  
1937年の日中戦争の勃発によって日本の産業は、軍事産業化に向けて急傾斜していきましたが、戦後につながる産業政策の雛形が登場したのもこの時期でした。中村隆英は、「ようやく産業構造が高度化し、設備投資や建設投資が増加して、鉄鋼、セメント、機械類をはじめとする投資財が本格的に需要される時代が到来していたのである。戦争さえ起こらなかったならば、戦後にみられた設備投資を起爆剤とする経済成長が可能だったかもしれない」と述べています。実際に、この1931年以降の高橋財政の下、日本の近代産業の中で先行し1930年代半ば迄に最大の輸出商品に成長した綿織物は、「イギリス経済のエンジン」といわれ、長い間世界市場に君臨してきたランカシャー綿織物を追い越して世界市場でトップの地位に躍り出たのです。

  

しかし予算案の審議において、軍部による巨額の軍事費拡張の要求を断固として拒否したことから軍人たちの怒りを買い、結果的に彼の命を奪うことになってしまいます。

 

 昭和の金融恐慌。破産した日本経済を立て直すべく蔵相に就任した高橋是清は、モラトリアム政策などでなんとか破産を逃れる。 しかしその後、軍部が台頭。犬養内閣や岡田内閣の蔵相として高橋是清は、陸軍の無茶な予算請求に「そんな金は日本にはない」と、頑として抵抗。日本の財政を守り続けた。そして、2・26事件。高橋是清は暗殺されたのでした。

 

アメリカでの奴隷生活から、帰国後も、芸者の紐、そしてはては総理大臣まで・・・

是清の遺した家訓には「運命」への心構えとしてこんな言葉が添えられています

 

第9訓・運命

  壁をけとばして棚のボタ餅を落とせ …偶然は作るものだ 

 

時代が是清という破格の男を選んだのも、偶然でなく必然だったのかもしれません。

 

 

■経世済民の男の名言集

 

経世済民 意味 世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと。また、そうした政治をいう。

「経」は治める、統治する。「済民」は人民の難儀を救済すること。「済」は救う、援助する意。「経世済民」を略して「経済」という語となった

 

波乱万丈の人生をあゆみ、人生の酸いも甘いのも知り尽くした是清でしかできない「経世済民」の政策と数々の名言を遺しています

 

 

・「一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才には、生きた財政は分からないものだよ」

  

・「いかなる場合でも、何か食うだけの仕事はかならず授かるものである。その授かった仕事が何であろうと、常にそれに満足して一生懸命にやるなら、衣食は足りるのだ。ところが多くの人は、現在困っていながら、こんな仕事ではだめだとか、あんな仕事がほしいとかいっているから、いよいよ困るような破目に落ちてゆくのである。」

 

 ・「不平を起こすぐらいなら、サラリーマンたる己れを廃業して独立するがよい。独立してやれば、成敗いずれにせよ、何事も自分の力量一杯であるから、不平も起こらぬだろう。けれども、この独立ができないならば、不平は言わないことだ」

 

 ・「株金は、細く長く利殖を得ることを楽しまねばならぬ。ところが、わが国の株主にはさような観念がさらにない。はなはだしいのになると、借金までしても、株主になる。そして、一時の僥倖によって利益を得ようとあせる。つまり、本当の株主ではない。これではまるで相場師と少しも違わない」

 

 ・「人間がこの世に生を受けた以上、自分のことは自分で処分し始末すべきである」

 

・「他任に依頼し、その助力を仰ぐのは、自己の死滅であると、私は信じている

 

・「もっと歳が若くて、先へ行ってご奉公できるというのなら別だが、ワシはもうこの年齢だ。いま、ご奉公しなければするときがない。ワシは最後のご奉公と思って入閣した・・・」

注釈:是清が最後の蔵相を引き受けたのは81歳の時。何故引き受けたのか側近に語った 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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