新宿中村屋 相馬愛蔵 成功の三要素

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相馬 愛蔵(そうま・あいぞう)

生誕:明治3年10月15日(1870年11月8日)

死没: 昭和29年(1954年)2月14日)

 

長野県出身の社会事業家、東京新宿中村屋の創業者である 

 

 

■中村屋サロンとインド式カレー

 

創業者 相馬夫妻の「己の生業を通じて文化・国家(社会)に貢献したい」という気持ちを反映し、中村屋には、明治の末から大正にかけて、美術、演劇、文学、その他広い分野にわたる多彩な顔ぶれが集まるようになりました。相馬夫妻は、集まってきた人々に対して多大な理解と惜しみない支援を送り続けます。この中村屋を舞台に創業者とこれらの人々の間に繰り広げられた交遊の世界は、いつしか"中村屋サロン"とよばれるようになりました。愛蔵は店の裏にアトリエをつくり、荻原碌山、中村彝、中原悌二郎、戸張狐雁らの芸術家たちに使わせます。

 

大正4年(1915年)には、右翼の重鎮・頭山満の依頼により、ここにインドの亡命志士ラス・ビハリ・ボースをかくまいます。

それから相馬夫妻は3カ月間半、命がけでボースを匿います。その後、大正7年(1918年)、長女俊子がボースと結婚。この間にボースが相馬夫妻にカリーライスを作り振る舞ったのが縁となり、中村屋は昭和2(1927)年に「純印度式カリーライス」を発売されました。

 

 

■成功への3要素

 

 ・一業に専心すること

 何でもないことのようだが、これがなかなか容易でない。他人の仕事は面白そうに見えて、自分の仕事はつまらなく見えるのが一般人の常です。そこで仕事を変える。この移り気が禍いして一生をだいなしにする者がどのくらいあるか判らない、ちょうど女の子が嫁入りすればその初縁を守ることが大切で、もし我儘を言って出戻りすると、つぎつぎと劣ったところへ嫁ぐようになって、悲惨な最期に達する。それと同じで、男子も最初に目的を立て、修業に就いたら、中途で他業に変ってはならない。せっかく少し手に入りかけた仕事を捨てて他に移れば、そこでまた一年生から始めねばならず、最初からその仕事をしている者には幾分か遅れて、その差は一生取返しがつかない。稀には天分他に勝れて、何をしても人の上に出るものもあるが、そういう人はまた世間みな馬鹿に見えて、自分ならば往く所可ならざるはなしと自惚れ、あれもこれもやって見て、ついに一生何事にも徹底せず、中途半端で終ることが多い。俗に器用貧乏というて貧乏がつきものなのも、この才人は才に任せて、あれこれ移り、一つに集中することが出来ぬからであります。たとえ天性鈍で、はかばかしい出世は望まれなくても、一事に従うて逆わず、その仕事に一生涯を打込むならば、独自の境地に自然と達するものである。とにかく途中であせって商売がえをするほど愚にしてかつこれくらい大なる不経済はありません。

 

・朋輩より一歩先んずること

 一歩を先んずるというところに諸君の疑問がありはしないか。何も一歩と限らず五歩も十歩も、先んずればよさそうに思われるであろうが、実にこの一歩という点がきわめて大切なのである。人の能力は人の身長の如きもので、奇形的な力士等は別として、彼は驚くほど背が高いと言ったところで僅かに五六寸の違いに過ぎない。まず一割くらいが関の山で、如何に奮発しても朋輩から一歩も二十歩も[#「一歩も二十歩も」はママ]先んじられるものではありません。もし強いて先んじようとすれば、後日に至ってかえって遅れる。私が青年時代のこと、富士山に登るのに健脚の自信があって、白衣の従者を追い抜き頂の方に素晴しい勢いで登って行った。ところが八合目になると急に疲れて休まねばいられなくなった。休んでいると先ほどの白衣の道者が急がず焦らず悠々とした足取りで通って行く。これではならぬと私も勇を鼓して登って行ったが、頂上に達した時は従者はもう早く着いて休んでいた。世の中のことはすべてこれだなと思って私もその時は考えたが、家康の教えにも、「人生は重き荷を負うて遠き道を往くが如し、急ぐべからず」とあります。実に名言だと思います。

 では一歩先んじようとは何であるか、遅れていても結果において早ければよいではないかと言ってしまったのでは話にならない。一歩を先んじよというのは、常に緊張して努力せよというのであって、その結果は必ず他に一歩を進める事となる。すなわちこの一歩一歩は富士の山麓から山頂までつづけられる努力であって、それは決して私がやったように一時人を出し抜く早足ではない。誰を負かすのでもない。ただ正当なたゆまざる努力である。たとえば我が中村屋の店員の中に定めの時間より一時間も早く出勤する者があるとする。私は決してそれを褒めません。多勢が一緒に働く場合は、一二の人だけ特別に早く出ることは朋輩を無視したやり方で、朋輩の感ずるところもよろしくない。人間は持ちつ持たれつの協同生活で、好んで他を心苦しくするようなことはしてはならない。まして一人だけ早く出勤して精励ぶりを認められようとする心事だとすれば稚気憐れむべしだ。とうていこんなことで成功は得られぬのである。

 

 

・報恩感謝の念篤きこと

 これは徳富先生もお話下さった通り、有難い、忝かたじけない、もったいないという心持のあるものは、物を扱うても粗末にせず、人に対しては丁寧であり、自分自身も満足であるゆえ、神にも人にも愛されることとなる。しかるに世には不平家なる者があって、主人に対しても、朋輩に対しても、世間に対しても常に不足不平のほかなく、しまいには自分自身にまで不満を感じて自暴自棄に陥る。従ってその行動は破壊的で世にも人にも容れられない。こういう人は報恩感謝の念なきに原因するのであって、まことに気の毒なものであります。

 

 諸君はどうかこの三点に注意し、希望を持って着々進まれるよう、私はこの中から一人の落後者も出ないことを祈るものであります。

 

昭和十一年十二月中村屋歳末例会において 

http://www.aozora.gr.jp/cards/001147/files/43526_20998.html 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■中村屋がささえたインドの革命

 

大正4(1915)年6月5日、神戸に上陸したボースは京都経由で8日には東京に着き、7月28日には中国の革命家孫文を箱根に訪ね、肝胆相照らします。武器をインドに送るためボースは上海に渡り、東京の同志から送られてきた多量の武器をインドに送ります。ところが、この船がイギリス官憲に見つかり、同時にボースの密入国がイギリスに発覚してしまい、追及されることになります。日本に戻ったボースに孫文は大アジア主義を唱えた「玄洋社」の頭山満を紹介します。当時の日本はイギリスと日英同盟を締結しており、イギリスのお尋ね者であるボースに国外退去命令が下ります。同年の11月28日のことでした。退去期限の12月2日を翌日に控えた12月1日の夜。官憲の尾行がついたボースは頭山邸から変装し、警官の目を欺き逃亡します。そして逃げ延びた先が中村屋でした。それから相馬夫妻は3カ月間半、命がけでボースを匿います。ちなみに、この間にボースが相馬夫妻にカリーライスを作り振る舞ったのが縁となり、中村屋は昭和2(1927)年に「純印度式カリーライス」を発売します。

 

この後約4年間、英国政府の追及が続き、17回にもわたり隠れ家を移り住む逃亡生活を送ります。それを支えたのが相馬夫妻の長女

俊子でした。中村屋を出た後のボースとの連絡役を務め、大正7(1918)年には頭山の媒酌で結婚しますが、逃亡中のことで隠れて行われました。同年、第一次世界大戦が終結したことを受けイギリスによるボース追及が終わり、一家は中村屋の敷地内に新居を建て生活します。

 

しかし残念なことに翌年、俊子は肺炎で亡くなります。享年26歳の短い生涯でした。

 

ボースはこの後、大正12(1923)年に日本国籍を取得し、インド独立運動に邁進。もう1人のボース、セバス・チャンドラ・ボースとも手を組み、その活動は東南アジア諸国に及びました。

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ラス・ビハリ・ボースは昭和20(1945)年1月21日、インドの独立を見ることもなく亡くなり、ボースと俊子の長男

正秀も日本陸軍戦車隊の一員として沖縄戦を戦いこの年6月のに戦死します。また、チャンドラ・ボースも8月19日、台湾上空で航空機事故に遭い共にインド独立を見ることなく亡くなります。

 

2人のボースが一生を捧げたインドの独立は2年後の昭和22(1947)年、インド国民の蜂起により果たされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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