藤田東湖と尊皇攘夷

 

 

 

 

 

 

 

 藤田東湖

『尊皇攘夷』

 

 

 

藤田東湖

生誕:文化3年3月16日(1806年5月4日)

死没:安政2年10月2日(1855年11月11日) 

 

 

水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の側近を務め、その懐刀として活躍したのが、藤田東湖(ふじたとうこ)です。  藤田東湖は、文化3(1806)年3月16日に水戸で生れました。  幼少の頃より、東湖は父であり水戸家の儒臣であった藤田幽谷(ふじたゆうこく)からの薫陶を受けて育ち、学問に精進し、次第に藩内で頭角を現しました。  文政12(1829)年に水戸藩第8代藩主・徳川斉脩(とくがわなりのぶ)の継嗣問題が生じた際には、東湖は斉昭(当時敬三郎)を擁立する一派の中心人物として活躍し、斉昭の第9代藩主への襲封を成功させました。

 

  その後、東湖は藩主に就任した斉昭の側近として登用され、水戸藩の天保改革の中心人物として藩政改革を推進するなど、その政治手腕は他藩にも聞こえるようになり、彼の名声は一段と高いものとなったのです。  嘉永6(1853)年、斉昭が幕政海防参与に任ぜられた時には、東湖も幕府から海防御用掛に任ぜられ、攘夷の政策立案に携わり、水戸一藩だけではなく、日本の政治に参与することとなったのです。

 

 

しかし、弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせており、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。

 

弘化4年(1847年)には水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、嘉永5年(1852年)にようやく処分を解かれた。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には側用人に復帰している。

 

 

 安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させるが、自身は力尽き下敷きとなって圧死したといわれる

 

 

■「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、ともにわしの最も尊敬した人である」(西郷隆盛 )

 

全国の藩士・志士達から絶大な信頼と輿望を一身に集めました。各藩の志ある若者は、江戸に来た際には必ずと言って良いほど、東湖の元を訪れ、その薫陶を受けたと言われています。

 

西郷隆盛、吉田松陰、橋本左内を始め多くの明治維新の志士達が師事し学び、彼らに最大の感化、影響を与えた人物こそ藤田東湖です。

 

とくに、西郷隆盛が最も敬愛し師事したのは、島津成彬を別としては藤田東湖その人である。

 

西郷は安政元年(1854)春28歳の時東湖にしばしば会った。東湖49歳の時である。東湖に会った悦びを近親者にこう語っている。

 

 「東湖先生も至極丁寧なる事にて、彼の宅へ差し越し候と清水の欲した塩梅にて、心中一点の雲霞なく唯清浄なる心に相成り、帰路を忘れ候次第にござ候。彼の方の学問は終始忠義を主とし武士となる仕立にて、学者風とは大いに違い申し候。自画自賛にて人には申さず候得ども、東湖も心に悪まれ候向きにてはござなく、いつも丈夫と呼ばれ過分の至りにござ候。もしや老公(斉昭)鞭を挙げて異船へ魁ござ候わば、逸散駆けつけむべ草に成りともまかりなり申したく心酔仕り申し候」  

 

西郷が如何に東湖を敬仰し心酔したか思いやられる。

東湖と初めて対面した西郷は、東湖の学識、胆力、そして人柄や態度に大きな感銘を受けました。

 

「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅(あんばい)にて、心中一点の雲霞なく、唯情浄なる心に相成り、帰路を忘れ候次第に御座候」(情は、清の誤記であると思われる)

(『西郷隆盛全集第一巻』より抜粋)(現代語訳 by tsubu)

 

「先生(東湖)のお宅を伺った時は、まるで清水を浴びたような気持ちになり、心中一点の雲霞もなく、ただ清浄な気持ちとなり、帰り路まで忘れてしまうほどです」

 

私にはこの文面を書いている時の西郷の嬉しそうな表情が目に浮かんでくるような気がします。

 

このように、初対面以来、東湖に対する西郷の傾倒ぶりは日増しに高くなっていきました。

また、西郷は東湖の家に出入りするようになってから、水戸の名士と呼ばれた人々と盛んに交流することになり、このことは西郷自身の自己啓発になったばかりでなく、若き日の西郷の人物形成に多大な影響を与えることになったのです。

しかしながら、このような西郷と東湖の交流は、ある大きな事件のために、長く続くことはありませんでした。

 

 安政2(1855)年10月2日、江戸にマグニチュード7とも伝えられる大地震が起こりました。 「安政の大地震」です。

 

 東湖は、小石川の水戸藩邸内の自宅でこの大地震に見舞われました。

 東湖自身は何とか危機を脱し、屋敷の庭へと逃れることが出来たのですが、屋敷内に取り残された母親を救出するため、屋敷内に立ち戻ったところ、頭上に大きな梁(はり)が落下し、東湖は母をかばって自らが梁の下敷きとなりました。東湖は残っている全ての力をふりしぼり、体全身で大きな梁を受け止め、母を脱出させた後、ついに力尽きて圧死したのです。

 この東湖の無残な死に方は、西郷に大きな衝撃を与えました。西郷はこの地震の二日後の10月4日付けで、当時鹿児島に戻っていた樺山三円に対し、次のような手紙を書き送っています。

 

 

「扨(さて)去る二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田もゆい打に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。頓と此の限りにて何も申す口は御座なく候。御遙察下さるべく候」

 

(現代語訳 by tsubu)

「去る二日の大地震は誠に天下の大変で、水戸の両田(この地震で、戸田蓬軒も圧死した)も揺り打ち(地震)に逢われた。何と申してよいか言葉もありません。とんとこれきり、何も話す気になれません。私の気持ちを察して下さい」

 

 

 悲しみに打ちひしがれている西郷の様子が痛いほど分かるような手紙です。

 西郷は後年東湖のことを次のように語っています。

 

「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、ともにわしの最も尊敬した人である」

 

 東湖の死後、西郷はその志を受け継ぎ、将軍継嗣問題や水戸藩への密勅降下等、縦横無尽の活躍をすることになります。

 一方、東湖を亡くした水戸藩は、歴史が示している通り、藩内で内部抗争を繰り返し、血の粛清が吹き荒れ、維新を迎えた頃には、ほとんど有為な人材が残っていないかったのです。

 この水戸藩の末路を見ても、東湖の死はその後の水戸藩の歴史を運命付けたとも言えましょう。

 

(参照:

 

http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/touko.htm

 

 

■明治維新で「水戸学」が果たした役割 

 

(参照:知命立命 心地よい風景 / his is Kiyonori Shutou's weblog )

http://shutou.hatenablog.com/entry/2015/07/23/072108

  

 

江戸時代前期に水戸藩で生き、水戸黄門様として今も親しまれている徳川光圀公は、十八才の時に史記の伯夷伝を読んだことをきっかけに大きく変貌し、やがて『大日本史』の編纂を始めます。 その編纂の過程において、史臣の才能を活用して史学以外に新しい学問として、和文・和歌等の国文学、天文、暦学、算数、地理、神道、古文書、考古学、兵学、書誌等々の学問を興され、それぞれ貴重な著書編纂物を残されました。 また光圀公は後世を考え、古典の異本を集めて異同を考証し、考証の経過を註記させたり、史料も六国史以外は註記といった形で諸種の校正本、参考本を造り校刻したのですが、そうした中で儒学・史学を基盤に、次第に国学・神道の要素をも包括してできあがって来た学問のことを『水戸学』といいます。

 

 

『水戸学』は、光圀公時代から18世紀の始めまでの『大日本史』の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだ前期と、斉昭公の時代の18世紀末から幕末にかけての『大日本史』編纂事業の継続と当時の時局問題の解決に目を向けた後期とに区別して論じられていますが、他藩からも注目されるようになったのは天保年間以後で「天保学」「水府の学」などと呼ばれ、それが明治以後になって『水戸学』と言われています。 そんな『水戸学』は、水戸藩天保改革の思想的裏付けとなっただけでなく、吉田松陰らに多大の感化を及ぼして幕末に高揚した尊王攘夷運動の指導理念となり、さらには明治国家の支配原理ともいうべき「国体」思想の源流ともなった点で、重要な歴史的意義を持つ学問です。

 

 

当時の『水戸学』は、内憂外患の国家的危機をいかに克服するかについて独特の主張を持つようになるのですが、その主張をまとまったかたちで表現した最初の人物が、「正名論」を著わした藤田幽谷です。 幽谷は、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、尊王論に理論的根拠を与えましたが、その思想を継承・発展させたのが、『新論』を著わした門人の会沢正志斎と、『弘道館記述義』を著わした幽谷の息子・藤田東湖です。

『新論』は国家的視野から日本政治のあり方を論じたもので、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、このための政治改革と軍備充実の具体策を述べたもので、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説きました。

 

その主張は、藩財政の窮乏、農村の疲弊、士風の弛緩などに現れた内政問題と、西欧列強の圧力が増大する対外問題との、両面から迫りくる幕藩体制の危機を深刻に受けとめ、その危機打開策としてまず民心の統合を実現し、国内政治の改革を断行して国家の統一強化をはかることの必要性を説いた点に特色があります。 ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成されたのですが、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初といわれています。

 

 

一方、『弘道館記述義』は改革政治の眼目の一つとして開設された藩校弘道館の教育目標を示した『弘道館記』の解説書なのですが、国民が実践すべき道徳論を論じたもので、日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題としています。 そこから『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史過程に即して「道」を説き、日本固有の道徳理念を明らかにするため、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が、それを支える「天地正大の気」であると説きました。

 

そのため東湖は、内憂外患の時期にこそ「天地正大の気」を発揮して国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、と主張したのです。 更に東湖は、自叙伝的詩文『回天詩史』や文天祥の正気歌に寄せた詩文『和文天祥正気歌(正気歌)』を著していますが。ともに逆境の中で自己の体験や覚悟を語ったものだけに全編悲壮感が漂うことから、幕末の志士たちを感動させ、佐幕・倒幕の志士ともに愛読されたと言われています。

 

 

 

■弘道館とは?

 

 

弘道館は水戸藩第九代藩主徳川斉昭により建てられた藩校です。館名の「弘道」は『論語』からとられました。

藩士に文武両道の修練を積ませようと、武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問を採り入れた、いわば総合大学というべきものでした。当時の藩校としては国内最大規模のもので、全国各地の藩校建築に影響を与えました。

第15代将軍となった徳川慶喜公も、父斉昭公の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けました。慶応3年(1867年)の大政奉還の後、謹慎した至善堂(しぜんどう)が今も残っています。


 

藤田東湖作「弘道館記」(訓み下し)

 

弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾も離るべからざる者なり。弘道の館は何の為にして設くるや。恭しく惟みるに、上古神聖、極を立て統を垂れたまひ、天地位し、万物育せり。其の六合に照臨し、宇内を統御したまふ所以の者は、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり。宝祚は之を以て窮り無く、国体は之を以て尊厳に、蒼生は之を以て安寧に、蛮夷戎狄は之を以て率服せり。而して聖子神孫は、尚肯て自ら足れりとしたまはず、人に取りて以て善を為すを楽みたまふ。乃ち西土の唐虞三代の治教の若きをば、資りて以て皇猷を賛けたまふ。是に於て斯の道愈々大に愈々明にして、復た尚ふること無し。中世より以降、異端邪説は民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲学は此を舍てゝ彼に従ひ、皇化陵夷し、禍乱相踵ぎ、大道の世に明ならざるや、蓋し亦た久し。我が東照宮は乱を撥めて正しきに反し、王を尊び、夷を攘ひ、允に武にして允に文に、以て太平の基を開けり。吾が祖の威公は実に封を東土に受け、夙に日本武尊の人となりを慕ひ、神道を尊び、武備を繕ふ。義公は継ぎ述べ、嘗て感を夷斉に発し、更に儒教を崇び、倫を明かにし名を正しうし、以て国家に藩屏たり。爾りしよりこのかた百数十年、世々遺緒を承け、恩沢に沐浴し、以て今日に至れり。則ち苟も臣子たる者、豈に斯の道を推し弘めて、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。此れ則ち館の設くることを為す所以なり。抑も夫の建御雷の神を祀るは何ぞや。其の天功を草昧に亮け、威霊を斯の土に留むるを以て、其の始を原ね、其の本に報ひ、民をして斯の道の由りて来る所を知らしめんと欲するなり。其の孔子の●(マダレに「苗」)を営むは何ぞや。唐虞三代の道、此に折衷するを以て、其の徳を欽し、其の教に資り、人をして斯の道の益々大にして且つ明なる所以は偶然ならざるを知らしめんと欲するなり。嗚呼我が国中の士民、夙夜懈らず、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教に資り、忠孝無二、文武岐れず、学問事業其の效を殊にせず、神を敬ひ儒を崇び、偏党有ること無く、衆思を集め、群力を宣べ、以て国家無窮の恩に報ぜば、則ち豈に徒だ祖宗の志の墜ちざるのみならんや。神皇在天の霊も亦た将に降鑒したまはんとす。斯の館を設けて以て其の治教を統ぶる者は誰ぞ。権中納言従三位源朝臣斉昭なり。

 

『勤王文庫』第弐編(大正8年初版。昭和6年11版。大日本明道会)による

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■大人気 家訓ブログが本になりました!

 

口コミだけで7,000人以上が共感! “家訓のスペシャリスト”の幡谷哲太郎氏が、初めての書籍『世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方』を発売.

 

本書は、簡単な家訓づくりのコツを教え、それを通じ、家族はもちろん、子供の成長、さらにはお孫さんの代まで、役立てるコツを指南する。

 

目次 : お母さんの悩みを家訓で解決/ 1分で実践できる素敵な習慣―家訓のある家庭の風景/ 身に着けたい正しい習慣/ 究極の育児は夫婦仲で決まる/ 親の背中が一番の教科書/ おばあちゃんの知恵で楽々子育て/ がんばれお父ちゃん/ 大事なことは先祖に学べ!偉人の家訓の勉強会/ 現代に生きる家訓で育った有名人たち/ 創作家訓の紹介―家訓のある風景 

 

■ご購入はこちら ↓↓↓

 

書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

出版社: セルバ出版

価格 : 1,600円+税 

URL  http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063