甘粕正彦 辞世の句「身ぐるみ脱いで すってんてん」

 

 

 

 

 

 

辞世の句

「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」

 

 

甘粕 正彦(あまかす まさひこ)

生誕:1891年(明治24年)1月26日 

死没:1945年(昭和20年)8月20日

 

日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した。

 

関東大震災 のどさくさに紛れて、社会主義者、大杉栄(おおすぎ さかえ)とその妻、幼い甥の. 3名を 殺したとされる、元憲兵大尉。

後に、中国に渡り、数多くの謀略工作に参加

映画「ラストエンペラー」の中で坂本龍一扮する甘粕正彦元陸軍大尉が満州国の黒幕として登場している。

 

 ■日本のプーチン? 闇が多い謎の男・甘粕とは?

 

ロシアの大統領プーチンは、ソビエト崩壊前にはKGBに所属し、スパイとして活動していたことが知られています。その後民主化により、国が混乱するなか、スパイ時代の人脈や卓越した能力をいかし、大統領に就任。影であるはずのスパイが国を捕った類まれなる例となりました。民主化したとはいえ、現在では皇帝とも揶揄されるプーチンさん。経済危機を打破し国民の信頼も厚いものの、反対勢力の実力者が、次々と不審な死をとげていく・・・のは気のせいでしょうか(*_*)

 

昭和初期の日本にも、プーチンのような男がいたのをご存知でしょうか?その男の名は、甘粕正彦。闇が多すぎる怪人物として多くの歴史小説に登場します。スパイから、国家の樹立。そして敗戦へ・・・

 

甘粕正彦が遺した辞世の句『おおばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん』を思い浮かべながらその半生を紹介していきます。

 

 

■満州は、昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配する

 

  

映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じた甘粕憲兵大尉

 

「満州は、昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配する」とまでいわれた人物なのですが、なぜ彼はそんなに権力を持っていたのでしょうか?満州国の内情をえがいた「虹色のトロツキー」というマンガをよんでも、石原莞爾より偉そうなのです。 

よろしくお願い致します。

 

甘粕正彦は最初、憲兵ではなく普通の軍人を志していましたが、憲兵に転向しています。実は「憲兵」という分野は軍の中でもあまり人気が無いらしく、本人も腐っていたのですが、そんなときに励ましたのが先輩でありのちに首相にもなる東条英機でした。

以後も一貫して甘粕さんは東条と公私共に交流を続けており、東条は彼のフランス留学や満州赴任をサポートしていました。

軍内部は戦果をどれだけ挙げたかの「成果主義」のように思われますが、意外と派閥が重要ですので 甘粕さんの力の背景には「東条閥」の力が果たした役割が大きいとも言われています。

 

なお東条はじめ陸軍が彼を影日向にサポートし続けた他の理由としては、甘粕事件といわれ、憲兵時代に、大杉栄夫妻らを殺害した件で服役をしており、この事件は軍の体面のため責任を一身に負って辞職した為と言われています。その後、甘粕正彦は一切前にも後にも弁解めいた事を言わずに亡くなったので真相は謎の部分もありますが、後の満映での従業員や俳優への心配り等を見ると、あながち出鱈目とも言えない気がします。


この生き様に対して東条や軍が共感と同情(と軍の弱みを握られているという後ろめたさ)を以って彼を支え続けたとすれば、彼の力が大きい理由も自然の理解できます。 陰の実力者と言われるだけあって、本当の理由は闇の中です。

 

甘粕事件後、3年の服役。出所後は民間人になったものの陸軍のサポートでフランス留学をはたし、その後中国にわたります。そこで情報・謀略工作を行うための甘粕機関という民間の特務機関を設立。また満州の国策である阿片ビジネスでリーダーシップを取っていくのでした。

 

1931年(昭和6年)9月の柳条湖事件より始まる満州事変の際、ハルピン出兵の口実作りのため奉天に潜入し、中国人の仕業に見せかけて数箇所に爆弾を投げ込んでいます。

その後、紫禁城(現在の故宮博物館・天安門広場)をおわれ、天津で幽閉生活をしていた清朝の第12代皇帝宣統帝の愛新覚羅溥儀に接触、満州国樹立の工作をおこない溥儀もこれを了承。擁立のため、溥儀を天津から湯崗子まで洗濯物に化けさせて柳行李に詰め込んだり、苦力に変装させ硬席車(三等車)に押し込んで極秘裏に連行した。その他、満州事変に関する様々な謀略に荷担した。

 

その働きを認められ1932年(昭和7年)の満州国建国後は、民政部警務司長(警察庁長官に相当)に大抜擢され、表舞台に登場する。自治指導部から分かれた満州唯一の合法的政治団体満州国協和会が創設されると理事になり、1937年(昭和12年)には中央本部総務部長に就任。1938年(昭和13年)、満州国代表団(修好経済使節団)の副代表として公式訪欧し、ムッソリーニとも会談。 

 

満州時代の甘粕は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。しかし甘粕はその硬骨漢ぶりと言動故に関東軍には煙たがられ、甘粕事件のイメージもあり、士官学校の恩師である東條英機という例外を除いては、むしろ冷遇されており、その影響力はあくまで日本人官僚グループとの個人的な付き合いや、士官学校時代の同期の学友達との人脈が源泉となっていたという(根岸寛一の証言)。また、根岸の証言によれば、謀略の資金源の大半は満映から出ていたという。

 

しかし実際は甘粕は紳士的に振る舞い、満映の日本人満人双方共に俳優、スタッフらの給料を大幅に引き上げただけでなく、日本人と満人の待遇を同等にしたことや、女優を酒席に同伴させることを禁止するなど、社員を大切にしたことから満映内での評判は高まっていった。甘粕はまた、文化人でもあり、ドイツ訪問時に当時の最新の映画技術を満州に持ち帰ってもいる。

 

1945年(昭和20年)8月8日ソ連は日ソ不可侵条約を破棄し日本に宣戦布告。翌9日満洲に侵攻。ソ連軍が新京に迫りくる中、日本が降伏した翌日の8月16日甘粕は満映の社員を全員集めて「必ず死ぬ」と言った上で、中国人社員に「(満映は)中国人社員が中心になるべき」と述べ、最後に「皆さんのお世話になったことを深く厚く御礼申し上げます」と挨拶した。そのあとに身の回り品を形見として一人一人に配り、社内の預金を退職金として全額引き出した。甘粕の部下は自殺しないよう銃器や刃物などを取り上げ見張っていたが、20日早朝、監視役の大谷・長谷川・赤川孝一(作家・赤川次郎の父)の目を盗み、隠し持っていた青酸カリで服毒自殺した(この現場には映画監督内田吐夢も居合わせた)。満映のスタッフは皆で甘粕を看取り、葬儀も執り行われた(新京で行われた葬儀には甘粕を慕う日満の友人三千人が参加し、葬列は1キロを越えたという)。甘粕の遺体は一時新京で埋葬されたが、翌1946年(昭和21年)4月に荼毘に付された。遺骨は家族の手で日本に持ち帰られて多磨霊園に納骨された。

 

 

■甘粕をよくしる著名人の証言

 

満州映画協会を設立した甘粕は、多くのプロパガンダ映画をつくった一方、出演者や映画スタッフとも気軽にコミュニケーションを図っていたといわれています。スパイであり、幾多の殺人にもかかわる一方、子どものように無邪気に芸術と文化の振興を指揮する面をみせるなど、ふり幅の多すぎる人物です。

 

謎の多い甘粕という人物をよくしる 当時の部下たちの有名俳優、女優の証言を紹介します。

 

 

森繁久彌は甘粕について「満州という新しい国に、我々若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金を儲けようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった」と証言している。武藤富男は、「甘粕は私利私欲を思わず、その上生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら…と羨望の気持ちさえ持った。また、そこに魅せられた人が多かった」と述べている。

 

李香蘭こと山口淑子が、「満映を辞めたい」と申し出た際には「気持ちは分かる」と言って契約書を破棄したが、彼女の証言によれば「ふっきれた感じの魅力のある人だった。無口で厳格で周囲から恐れられていたが、本当はよく気のつく優しい人だった。ユーモアを解しいたずらっ子の一面もあるが、その度が過ぎると思うことも度々だった。酒に酔うと寄せ鍋に吸殻の入った灰皿を入れたり、周囲がドキリとするような事をいきなりやった」とのこと。

 

権力を笠に着る人間には硬骨漢的な性格を見せ、内地から来た映画会社の上層部を接待した席で彼らが「お前のところの女優を抱かせろ」と強要した際に、「女優は酌婦ではありません!」と毅然とした対応をしたという。

 

これら周囲の人間の好意的な証言がある一方で、ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■満州国とは?

 

満州国(まんしゅうこく、旧字体: 滿洲國、英語: Manchukuo、拼音: Mǎnzhōu Guó)は、1932年(大同元年)から1945年(康徳12年)の間、満洲(現在の中国東北部)に存在した国家である。帝政移行後は「大満洲帝国(大滿洲帝國)」あるいは「満洲帝国(滿洲帝國)」などと呼ばれていた。


日本軍は、当時幽閉生活をおくっていた清朝の第12代皇帝宣統帝の愛新覚羅溥儀の擁立を画策。溥儀もこれに応え、中国東北部に『満州帝国」が建設された。


満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。

 

満洲国は建国以降、日本、特に関東軍の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとしたが、このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

 

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸寄りの中立国も満洲国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれた。アメリカやイギリス、フランスなど国交を結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

■五族協和と満州国

 

 

一般には、関東軍による傀儡政権ともいわれる満州国ですが、調べていくと理想国家建設にむけて努力していた姿が浮かび上がります。

 

以下、「ねずさんのひとりごと」(UCL:  )を参照に満州国の概要を紹介します。

 

画像の左端の国旗は、満州国の国旗です。「五族協和」をイメージしています。黄色は満州民族と統一、赤は大和民族と情熱、青は漢民族と青春、白はモンゴル民族と純真、黒は朝鮮民族と決心を表しています。

 

満州国は、1932年から1945年までのたった13年間、現在の中国東北部に存在した国家です。

かつて、東亜の平和と統合の象徴として築かれた満洲国。

いま、満洲国は地球上に存在しません。

 

しかし、かつては一つの国家として、まるで奇跡のような素晴らしい建設と発展を遂げた国でした。

 

満洲について語るとき、多くの歴史教科書や左翼系学者は、昭和6(1931)年の柳条湖事件に端を発した満州事変、これによる帝国陸軍の満洲占領をきっかけとして、昭和7(1932)年の満洲国建国が行われた、と語られることが多いようです。

 

そういう記述は、実は故意に日本を貶めようとする罠(わな)です。

赤穂浪士の討ち入りを、討入当日だけを切り出して、四十七士が、爺をみんなでよってたかったいじめた物語とするようなもの

 

歴史には、常に流れがあるのです。

 

満洲というのは、もともと、広大な原野の土地です。

そこには、半農半牧の女真族がいて、広大な原野で静かに暮らしていた。

女真人には、顔立ちに特徴があります。

面長で、眉が薄い。

漢人が卵型、朝鮮人がえらが張っているのと同様、女真人にも特有の特徴がありました。

 

女真人と言うのは、清王朝を興した種族です。

いまから400年近く前、支那の明国の治世が乱れ、国内が内乱状態となります。

 

女真族は、ヌルハチが八部族を統一して、明を攻め滅ぼします。 そして漢族の首都である北京に紫禁城を構えて、そこに移り住んだのでした。それが、17世紀のことです。

 

この清という強国が、200年にわたり中国を支配するものの、20世紀がはじまり、国力低下が顕著となり、アヘン戦争に代表される西欧による植民地支配との攻防が、この時代の背景です。

 

「五族協和」は満洲国の理想です。

「満洲、日本、朝鮮、漢、蒙古の五族が、仲良く力を合わせよう」という意味です。

 

日本は、満洲国の国づくりを支える決断をします。

 

まずはダムの建設です。大規模なダムを次々と建設しました。

なかでも「豊満ダム」は、高さ90M、長さ1100M、東洋最大級のダムです。

 

ダム建設によって、まず満洲の水害が減りました。

治水が可能になったのです。

これにより、農業がいっきに振興します。

 

加えてダムは、満洲やその周辺の電力を賄います。

 

豊満ダムが完成した時、世界中から多くの人が見学に来ています。

 

フィリピンの外相は、ダムの大きさと役割の大きさに驚き、次のように述べています。

 

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フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過しています。

しかしスペインも、アメリカも、住民の生活向上に役立つものはなに一つ作っていません。

満洲は建国わずか10年にしてこのような建設をしています。

素晴らしいの一語につきます。

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日本が開発した夢の超特急「あじあ号」は、当時の蒸気機関車の水準をはるかに上回る最高時速120km/hで走行します。しかも、当時の機関車でありながら、冷暖房完備です。

 

鉄道敷は、年間600kmも延長され、新京、奉天、ハルビン、吉林、チチハル等の都市が建設されます。

 

首都・新京では、百万人都市となるべく計画が進められ、電気、上下水道が完備し、東洋初の水洗便所が整備された。

 

新京放送局は、百キロワットという東洋一の出力規模の放送局としてスタートした。

おかげで、当初ラジオに馴染みのなかった満洲人が、昭和15年頃には日本人以上にラジオを聴く人が増えました。

 

満洲電信電話株式会社は、電話を敷設し、電話加入者は昭和15年には107,707人になっています。

 

昭和9年には国立新京法制大学、昭和12年には建国大学が建立されました。

 

その他、銀行が生まれ、小中高の学校が設立され、重工業地帯が整備され、農地は整備されかつ拡大し、病院ができ、道路ができ、空港や港ができています。

 

さらに満洲国では、治外法権もなくした。

満洲人であれ、支那人であれ、日本人であれ、満洲国法の下で等しく裁かれるようになった。

 

この間、わずか13年。

 

大東亜戦争の最中でも、止むことのなかった満洲国の国家的インフラ整備事業は、昭和20年8月9日、米国が広島に原爆を落とした3日後のソ連による宣戦布告で破られます。

 

南方戦線に戦闘用物資を送り、ほとんど丸裸状態だった満洲の関東軍17万人に、ソ連陸軍175万人が襲いかかります。

 

日本軍の将兵には、弾も残されていない。

あるのは、終戦直前まで工事進行のために用意されていたダイナマイトだけです。

 

彼らは、そのダイナマイトを抱え、肉弾突撃で、ソ連軍の戦車の来襲を食い止めようとした。

なぜか。日本の婦女子や老人たちを、内地に逃すためです。

 

しかし、男たちがソ連軍に肉弾突撃をして戦い死んで行ったことをよいことにして、難民となった日本人の婦女子や老人に、支那人や朝鮮人が襲いかかります。

 

ようやく北朝鮮との国境の町、通化にたどりついたとき、女たちは、衣類さえも奪われ、身にまとっているものといえば、大陸の寒空の中で、むしろ1枚にされていた。

 

そしてソ連は、戦後、日本の軍人、民間人、60万人~70万人と、様々な機械設備等をシベリアに連行し、ソ連の理想とする、有産階級(労働者)が働かなくても、国家によって給料が支給され、みなが平等に暮らせるという「理想」の実現のために、奴隷的労働を課せられた。

 

わずか13年で満洲国一国を建設した、その技術とノウハウと、設備一式のすべてを、ソ連に連行し、無給で彼らを働かせ、ソ連国内のインフラ整備をさせたのです。

 

アメリカのボーレー調査団の報告によれば、ソ連が満洲から連行した資産は、約9億ドルに相当する資産だったといわれています。

 

当時大蔵省から抜擢されて満洲国総務長官を務めた星野直樹氏の言葉があります。

 

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生命わずか13年。

満洲国の建設は遂に見果てぬ夢に終わった。

 

しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは永久に日本民族の誇りとするに足るものであると確信する。

 

満洲国建設の仕事に参画することができたことを、いまに幸福と考えているのは、決して私一人ではないと思う。

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満洲はその後、支那共産党が、摂取し、自国の領土とします。

 

毛沢東はこれを狂喜し、「東北省(満洲)を手に入れたことは、支那すべての富を入手したことに等しい」と述べています。

 

しかし、支那共産党は、日本と満洲国が作った鉄道路線を、戦後60年間、ただの1Mも伸ばすことなく、日本と満洲国が築いた高速道路も、ようやく近年、日本の経済と技術援助で完成させた。

 

五族協和と王道楽土を夢見た満洲国は、いまはもうありません。

そして、支那共産党の民族同化政策により、かつて一国を築いた女真族も、すでにありません。

 

満洲国の物語は、わたしたちにいろいろなことを教えてくれます。

 

 たいせつなことは、国家というものは、消えてなくなることもある、ということです。

そのことを、わたしたち日本人は、もういちどよくかみしめてみるべき時がきているのではないでしょうか

 

王道楽土を夢見た大陸浪人たちが創った「満州国」はいまはもうありません。

甘粕正彦の辞世の句を最後に紹介します


辞世の句

「大博打 身ぐるみ脱いで すってんてん」

 

五族協和や、王道楽土など理想に燃えた国造りは、一般には、戦争中におこったあだ花のような扱いです。

しかし、そこに国があったこと、そしてその理想は立派であったことは、間違いない事実なのではないでしょうか?


甘粕正彦の闇と、そして時よりみせるチャーミングさと、ダンディズムの中に、子どものように無邪気さで国を創った男たちの夢の跡をかんじました。


満州がきえさったあと、引き揚げを体験された多くの日本人は、筆舌に書き記せない苦難をあじわっています。

しかし往時をしる現在70~80歳をむかえるの方々のなかには、大陸の空気で人間をはぐくみ苦労を糧に大成功をおさめた著名人もたくさんいらっしゃいます。

昭和初期という時代は、不幸にして、戦争という手段でしか、平和を保てなかった時代でした。しかし、その時代に生きた日本人はそれぞれの場所で、それぞれの能力を開花させていました。1つの国をつくるという野望は、新しい日本人をつくったという点でも評価されるべきなのではないでしょうか?



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

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コメント: 3
  • #1

    横須賀鬼太郎 (火曜日, 01 3月 2016 17:21)

    大博打 身ぐるみ脱いで すってんてん、英知を集め国家100年の大計に基づくべき、日本の進路が、昭和前期はこのようなものであったことです。二度とこのような事が将来の日本において生じないように、考えさせられます。

  • #2

    家訓二スト(管理人) (水曜日, 02 3月 2016 12:10)

    横須賀さま
    コメントありがとうございます。いい経験も、むしろ悪い経験こそ、たくさんの教訓が詰まっていると考えています。そういった意味で、第二次世界大戦の中には、いまこそ活かすべき教訓があるのではないでしょうか? 問題は、私自身をふくめ、近現代史の知識があまりに少ないことです。今後も、戦時期の人物に焦点をあてた家訓、辞世の句のブログをアップしていきますので応援よろしくおねがいします

  • #3

    マディソン希望 (日曜日, 09 4月 2017 10:27)

    甘粕正彦、乱心の曠野読んでます。甘粕大尉は酷いこと言われてますけど、こういうブログがあって嬉しいです