野村徳七(野村証券創始者)の遺訓

 

 





野村徳七遺訓

『よく働き よく遊べ』

 

第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)8月7日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の実業家。両替商の野村徳七 (初代)の長男で野村財閥を築いた二代目(幼名は信之助)。

 

■野村証券とは?

 

1918年(大正7年)年に野村徳七によって設立された大阪野村銀行(後の大和銀行・現:りそな銀行)の証券部が独立し1925年(大正14年)野村證券は、「調査の野村、情報の野村」といわれ、豊富な情報力と正確かつ敏速な分析力を駆使し、さらに「ノルマ証券」と異名を与えられるほどの徹底した営業力で、現在の絶対的な経営基盤を築いてきた

 

売上高:6133億92百万円(2011年) 

※連結:1兆831百万円

純資産:8728億65百万円 (2011年)

 

総資産は10兆5010億25百万円 

従業員数 12,756人(2011年3月31日現在

 

創業の精神

・野村グループの存在意義

「証券報国こそは野村證券の職域奉公の実体にして、あくまでもこれを貫徹すべく」(「投資信託の実証的研究」野村證券調査部編)

・顧客第一の精神

「自己の利益よりも顧客の利益を先にす」(「大阪野村商報」第百号)

・調査・分析の重視

「凡ての證券に就いて、その本質に就いての研究を科学的になすべき責任がある」 「蔦葛」)

・先取りの精神

「常に一歩前進することを心がけよ。停止は退歩を意味する」 (「野村得庵 本傳上」)

 

参照:NOMURAグループHPより 

http://www.nomuraholdings.com/jp/company/basic/founder/

 

 

 

■相場は狂えり

 

大阪の小さな両替屋だった野村家が飛躍したきっかけは、日露戦争後の経済の混乱期のことでした。


東洋の島国である日本が大国ロシアに勝利したことは、有色人種が白人にかった唯一無二の戦いであり、日本にとどまらず世界中に大きく知られるニュースとなりました。ただし、戦争後の高揚感とは裏腹に、経済の実態には貢献度は限定されたものでした。しかし誕生まもない日本の株式相場は、この勝利に酔い、空前の株高となっていきます。

老若男女が、株高にうかれる相場のなか、「調査の野村」と言われた野村証券は、この株高をバブルと見抜き、新聞で「相場は狂えり」との広告をうちます


その後、徳七の警告もとどかず、株式市場は、一気に崩壊。

明治をになってきた多くの経済人が、バブル崩壊に巻き込まれ財産を失うなか、徳七は、「逆張り」の相場で巨額の儲けをだしています。また単に個人の利益だけでなく、新聞広告で、自分の得た情報を広く公開したというのも、高い志を感じる行動です。この時、徳七は30歳前後・・・ 新進気鋭という言葉がぴったりな活躍でした。


『野村得庵伝』には次のように記されている。

「氏は善きものは善しと言ひ、悪しきものは悪しと言ひ、善きものが不当に売り崩される時は進んでこれを買ひ、悪しきものが不当に買ひ煽られる時は進んでこれを売るといふ風で、氏は常に正面から堂々と戦った。氏が率先して調査部を設立し、これを自己目的の利益のためのみに利用せず、進んで一般に公開し、出来るだけ社会全体の用に供しようとしたことは、(中略)最も進歩した遣り方で、かかる進歩した遣り方が、明治の末期頃、すでに三十歳前後の一青年によって採用されたといふのは、たしかに驚嘆すべきことである。」


このときの東西市場での売り買いの攻防戦は激烈をきわめ、後世の語り草となりなした。徳七にとっては、独立後はじめて桧舞台に上り、そして、大勝利をおさめ、野村の存在を証券界に大きくクローズ・アップさせて、盤石の基盤を確立した記念すべき戦いであった。また、この戦いは、信之助の生涯に大きな影響を与え、彼の株式観、事業観は、このときの体験によって形成されたところが少なくなかったといわれています。

  

■徳七の遺訓 『よく働き よく遊べ』

 

仕事や勉強をまじめにこなす人が多いのが日本人の特徴です。しかし、「よく働く」だけでなく、「よく遊ぶ」ことを徳七は遺訓として申し伝えたと言われています。

「遊び」というと、無駄使いや、人生をダメにするとの印象がある一方、「大人の遊び」は人生を豊かにし、人脈をひろげ、自分の器をひろげてくれる効能があるのではないでしょうか?


徳七が、その生涯でもっとも熱心に遊んだのが「茶道」です。これを「数奇者(すきしゃ、すきもの)」といい、は芸道に執心な人物の俗称として用いられ、現代では、本業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に多くの茶道具を所有する人物をさす言葉です


明治30年代すなわち1900年前後から、財界、政界の富裕な人びとが茶の湯に興味を持つようになりました。彼らを近代数寄者と呼んでいます。数寄者たちは従来の茶の湯にこだわらず、日本美術という観点から茶の湯の名物道具を積極的にとり入れ、ゆたかで豪華な茶の湯をつくりあげました。


その代表的な人物として、三井物産の創始者である益田孝(鈍翁)があげられます。益田鈍翁は、こんにち国宝あるいは重要文化財に指定されているような数々の美術工芸品をコレクションし、これを展観しつつ多くの人々を集めて茶会をひらきました。その茶会がこんにち大師会として続いています。そのほか野村徳七や、根津嘉一郎、小林一三(阪急グループ)、五島慶太(東急グループ)などのたくさんの数寄者が、そのコレクションを根津美術館、逸翁美術館、五島美術館といった、美術館という形で残しています。


近代実業家は明治から昭和初期にかけて互いに激しく争い、経済の発展に貢献 しています。その一方で、茶道を愛し、数寄者と称された彼らは、茶会において何度も同席し、閥の枠を超えた交流が繰り広げられていたことはほとんど知られていません。


財をなした数奇者たちが、争って手に入れた茶道具は、元々大名家に所蔵された逸品です。さらにさかのぼれば、信長、秀吉、家康などの戦国武将たちが、時には一国の領地と引き換えに手に入れた大名物でもありました。


徳七たち、明治の数奇者は、「よく働き、よく遊べ」を実践し、戦国武将たちと同じく、自らの才覚で新しい時代を自分の力で実現させました。閉塞感のただよう現代において、「よく働く」ことはもちろん、「よく遊ぶ」ことが、求められているのかもしれません









 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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