昭和天皇の御歌『降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ  松ぞ雄々しき人もかくあれ』

 

 

 

 

 

 

 

 

降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ  松ぞ雄々しき人もかくあれ

(敗戦の4ヶ月後1946年歌会始にて)

 

 

1945年の大東亜戦争の終戦をへて、昭和天皇は、象徴天皇として、悠久の歴史を紡がれていきます。

敗戦の4ヶ月後1946年歌会始で詠まれた歌が、上記の御歌です。

 

国民によりそい、戦後は、政治活動にお口添えができないお立場でありましたが、折に触れ、国民をはげますメッセージを「御歌」として発表されていきました。今回は、その御歌が発するに至った背景を同時代の出来事と共に紹介させていただきます。

 

 

■マッカーサーとの会談

  大東亜戦争終結後、戦後処理の一番の論点は、昭和天皇の戦争責任についてでした。戦勝国の中でも、意見がわかれる中、GHQのマッカーサー長官は、昭和天皇との会談にのぞみます。

 

会談の前のまで、長官は昭和天皇の責任を追及する立場でした。しかし、会談後は、態度を一変し、擁護する姿勢をつらぬきました。

 

いくつかの回顧録を総合するとこのようなやりとりがあったそうです。

 

昭和天皇:

「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」

 

多くの国の統治者は責めから逃れようと命乞いをし財を守ろうとします。しかし、昭和天皇の多くのそれとは違っていたのです。

この言葉に、マッカーサーは驚きました。彼は、昭和天皇が命乞いにくるのだろうと考えていたからです。
 
マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記しています。


「私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに、天皇に帰すべきではない責任までも引受けようとされた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」

 

この時マッカーサーは、次のように返答したという。
「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(藤田侍従長による『侍従長の回想』)

 

マッカーサーは、立ち上がって昭和天皇の前へ進み、抱きつかんばかりに天皇の手を握りしめて、「私は、初めて神の如き帝王を見た」と述べた。
わずか37分間の会見で、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は、まったく変わっていた。

 

会見前は傲然とふん反りかえっているよな態度をとっていたマッカーサーが、会見後には昭和天皇のやや斜め後ろを歩くような敬虔で柔和な態度で、会場から出て来たという。
会見後、マッカーサーは予定を変更して、自ら昭和天皇を玄関まで見送った。当時、ソ連やアメリカ本国は「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、昭和天皇の態度に感動したマッカーサーは、これらの意見を退けて、自ら天皇助命の先頭に立ちました。

 

天皇陛下が、無私の立場を貫き、命をとしたこの会談では、食料不足に悩む国民のため援助を引き出すことにも成功しています。戦前、天皇陛下が君臨する政治体制を「国体」と表現していました。この「国体」は神話の世界から2600年間。史学的に証明できる一番古い天皇からさかのぼっても1500年間、たえず守られてきたものです

 

建国からわずか数百年。まだまだ若いアメリカという国にあって、マッカーサー元帥が、陛下の人徳にふれ、赤子のようにひれふす姿は痛快です。

 

昭和天皇は、敗戦の4ヶ月後1946年歌会始で、こんな歌を詠まれています

 

降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ

松ぞ雄々しき人もかくあれ

 

国体の滅亡の危機から救ったものは、銃でも、爆弾でもなく、陛下のお人柄と、人徳でした。

 

 ■戦後の巡幸

 

 

 

 

 

 

「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、いうことをね。それが生きた民主主義の教育というものだよ。」

 

昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされたそうです

 

しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものでした。昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかったそうです

 

イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。

 

日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。

 

イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?

 

欧米人の常識では理解できないことが起こったのです。

 

また巡幸の際、地方によってはまともな宿泊施設がなかったため、焼け残った民間の建物や学校の教室にお泊まりになることも厭わなかったそうです。また炭鉱では労働者が皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていたが、いざ昭和天皇がこられると、自然と万歳を唱えていたと伝えれています。

マッカーサーをとりこにしてしまったように、陛下のもつ「おおみごころ」には万人を包み込む優しさがあふれています。

 

石油も、鉄もとれない日本という国にあって、唯一の資産は、「人」です。焼野原になった国土を再生すべく、奮闘した無名の人々を陛下はたえず励まし、お心をお寄せくださいました。戦後数十年で世界有数の経済大国になった奇跡の源に、陛下の優しさがあったのではないでしょうか?

 

 ■吹上御所のおはなし

 

 

 

 

 

昭和天皇のお住まいのお話しです。終戦後、陛下は皇居内の「ご文庫」という建物にお住まいでした

 

この御文庫、爆弾の飛来を想定して建造したのはいいものの、天井に詰めた砂は建設当時雪が積もっていた砂をそのまま詰めてしまっていて、溶けた水が何年も経ってからコンクリートから浸み出してぽたぽたと落ちてくるありさまでした。

同じく御文庫附属室は地下深くにあったため、そこから伝ってくる湿気も酷いものだったといいます。スーツを吊るしておくと一両日のうちに湿ってしまったのだとか。

 

こんな場所に陛下を住まわせてはおけない、と侍従は御所の新造を提言しますが、陛下は「世の中には住む家の無い人もあるのに、私にはこれだけのものがあるのだから」とあっさり却下。

 

では、せめて修理を…と、調査してみれば天井裏からなんとドラム缶2本半もの水が出てきたのです。

これはいかんと再三にわたり陛下に新造を奏上するも、やはり陛下の答えはNOでした。

 

そして日本は戦後の混乱期を乗り越え、高度経済成長期を迎えます。昭和34年(1959年)皇太子殿下(今上陛下)御成婚で世間はミッチー・ブームに沸きますが、そのときですらなおまだ両陛下は御文庫にお住まいになっていました。

 

結局それからさらに2年、終戦から丸16年経過してようやく新たに建てられた吹上御所にお移りになったのです。 吹上御所は延べ1,504㎡。鉄筋コンクリート2階建ての洋風建築で「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ」とこの年に還暦を迎えた陛下はおっしゃったのだそうです

 

また1937年、昭和天皇は、ゴルフ場として利用されていた吹上御所内の敷地を、自然林に戻す計画をたて、以後90年近くかかり、大都心に自然がよみがえさえました。その敷地は、115万平方メートル 東京ドーム25個分です。最近の調査では、カワセミやホタル、たぬき、紅糸とんぼ、そして自然の豊かさを象徴するオオタカが生息しているそうです。

  

いまだに多様性を無視し、河川敷をガンガンコンクリートで固める御役人様に比べ、昭和天皇の示されたビジョンには、はるか天より見通すような慧眼を感じます。

 

生物学者としても活躍された昭和天皇は、できるだけ人の手をいれず、そして100年、200年という単位の計画で、都心のど真ん中を森に変えられました。また、一節には、1923年におこった関東大震災の被害をみて、万が一の避難場所として森を残したとも言われています。

  

慈愛と、確かなビジョン。そして行動力に溢れた昭和天皇は、自身のつくられた「森」についてこんな言葉を残しています。

 

「雑草という草はない。どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる」 

 

侍従長だった入江相政(すけまさ)さんが昭和天皇の言葉として紹介しています。 昭和天皇の留守中に庭の雑草を刈っていた入江さんに対してなぜ草を刈ったのか尋ねたところ「雑草が生い茂って参りましたので、一部刈りました。」という答えに対して仰った言葉です。

 

昭和天皇のご遺徳はもちろん、今上天皇も、昭和天皇が熱望してやまなかった沖縄への巡礼を実施、またサイパンや、ペリリュー島への慰問も実現しています。

 

巡幸は戦後だけでなく、被災にあう度にお姿をおみせになられます。 震災後の混乱時に、いち早く国民にむけてのメッセージをお出しになり、痛みを共に感じるために、計画停電にあわせて、電気をつかわない生活を実践されていたそうです。

巡幸も、宮城、岩手、福島の3県だけでなく、埼玉、千葉、茨城の被災地もめぐられています。忘れられた被災地といわれる茨城には首相も大臣もくることはありませんでした。しかし、陛下がいらっしゃることになり、その後の復興のスピードが加速的に進んだと住民の方が教えてくれました。戦後の混乱期、そして被災地にあって、国民が傷つき打ちのめされた時、弥勒菩薩のように現れる陛下は、本当の意味で現人神なのかもしれません

 

世界的な権威であり、謙虚であり、政治家であり、無私のひとであり、どれだけ賛美の言葉を並べても、昭和天皇をあらわす言葉がみつかりません

 

昭和の日。昭和天皇のご遺徳に触れ、とてつもない日本の歴史を子どもたちに伝えてあげてください。

 

19世紀 イギリスの思想家「スマイルズ」は、国としての品格は、その国民が自分が偉大なる民族に属するのだという感情によって支えられ、そこから力を得るものである。と述べています。

 

世界には190国あまりの国があるそうです。

1度しかない人生、自分が生まれた国を愛せない人がいるとしたら、それは寂しいことです。悠久の歴史をつむいでいらっしゃった天皇家の皆様の御偉功に感謝し、恩に報い、一所懸命に、それぞれの場所で、懸命に働き、喜びを分かち合う日々を送られることを祈念しています。

 

 ■焼き場に立つ少年

 

写真の少年は、終戦直後、長崎で撮られた写真です。

戦勝国となったアメリカ軍。しかし、広島、長崎に落とした原子力爆弾は、非人道兵器であり、放射能の被害は、女、子ども。そして罪のないお腹の子どもまで、何世代もの枷をはめるものでした。

 

アメリカ側も、厳しい言論統制をひき、悲惨な姿や情報が外部にもれでない体制をひきます。しかしこの写真は、ひとりの写真家が、軍の規律をやぶりシャッターに収めた一枚です。

 

まだまだ幼い少年が、被ばくによって亡くなった妹を背負い、亡骸に火をともす順番をまっています。戦後40年がたち、この写真が公開されると世界中で戦争の悲惨さを今に伝える作品であるとの評価が高まります。

 

ローマ法王・フランシスコ教皇は、この写真にショックをうけ、世界中のカトリック教会にこの写真を配ることを指示。令和元年の来日の際には、アメリカ軍による原爆投下を「テロ」であったと弾劾し、二度とこうした悲劇が繰り返さないための行動を世界に呼びかけたのでした。

 

焼き場に立つ少年の姿は、悲惨さを訴えるだけでなく、終戦後もなお、人間として凛とした姿をみせた往時の日本人を映した姿にも思えてきます。事実、この後の日本は、めざましい経済成長をみせ、戦勝国となったアメリカとも友情をむすび、世界から尊敬される国家となりました。

 

いまいちど、昭和天皇さまの御歌を紹介します。

降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ  松ぞ雄々しき人もかくあれ

(敗戦の4ヶ月後1946年歌会始にて) 

 

終戦から75年がたち、当時の記憶を持つ方も少なくなってきています。

多くの英霊と、家族、地域、日本のために努力してきた幾多の先人のおかげで、今の日本があります。では、「今」を生きる我々は、何ができるのか?自分の無力さにただただあきれるばかりです。

 

焼き場に立つ少年の「凛」とした姿。

僕自身、そんな背中をみせる人間となるよう努力を誓います。

 

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コメント: 2
  • #1

    さらり (火曜日, 26 11月 2019 07:15)

    日本人にうまれてよかった!家族友人に語り継いでいきたいです

  • #2

    家訓ニスト (水曜日, 27 11月 2019 16:24)

    →さらり様
    メッセージありがとうございます。
    ブログを更新していても誰が読んでいるか?いつも不安一杯ですが、さらり様のお心に響くものがあったとしたら、本望です。

    逆に勇気をいただきました
    改めて御礼申し上げます。