後藤新平 最後の言葉

金を残して死ぬ者は下

仕事を残して死ぬ者は中

人を残して死ぬ者は上 

※脳梗塞で倒れたあと最後に残した言葉

 

 

後藤 新平(ごとう しんぺい)

生誕:安政4年6月4日(1857年7月24日)

死没:昭和4年(1929年)4月13日)

 

台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。

 

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した

  

戊辰戦争の賊軍側となった没落士族の家系の後藤新平は、苦学の末、文字通り自らの能力と努力のみで、若くして台湾民政長官、満鉄総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長、関東震災後の帝都復興院総裁などの要職を歴任し、明治維新後の日本の国造りをけん引しました

 

 

街をつくり、人をのこした新平の器 

 

関東大震災の年、のちに新聞王となる正力松太郎は、官僚として働くものの、懲戒免職処分になって失業中していました。少し前まで内務大臣として上司だった後藤新平を訪ね、「部数が5万部に落ちてどん底の読売新聞を買収して経営したいのですが、至急10万円が必要です。何とかならんでしょうか。」と金の無心をしたといわれています

 

後藤は、1~2分考えて承知し、

「新聞経営は難しいと聞く。失敗したらきれい捨てて、未練を残すなよ。金は返す必要はない。」

実はその金は、後藤が麻布の自宅(今の中国大使館)を抵当にいれてつくったお金でした。その事実を正力が知ったのは後藤が亡くなってからでした

  

後藤は、有能な人への個人的援助を惜しまず、右は北一輝から左は大杉栄まで多くの人を援助し、多額の借金を残して亡くなったのだそうです。文字通り、財をのこさず、人をのこした見事な人生です。

 

人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう

晩年は、ボーイスカウト総裁などを勤め、青少年教育にも従事しています。ボーイスカウトでは、「自治三訣」すなわち、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」と説いて歩いたといわれています。

 

1929年に亡くなる直前、少年団副理事長だった三島通陽に、

「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」という言葉を残したそうです

 

国家の医師として

医者の資格をもつ新平にとっては、明治維新後、急速な西洋化の中で葛藤する日本はヨチヨチ歩きの子供に思えたのかもしれません。事実、新平は、患者を治療するように、併合された台湾を文明国に育て、また関東大震災に傷ついた東京には、100年の計をもって癒し、また、有能な若者や子供たちへの支援を惜しまなかったことがわかります。

 

ただし、大きすぎる新平の大風呂敷は、令和の世になっても、正当な評価を受けていないとさえ感じます。今の日本に足りないものは、新平のような器をもった大人物だと感じます。そして、もっと足りないものは、新平を引き立てるもの、そして任せた以上は、金だけだして黙っていられる「胆力」のある大人なのではないでしょうか?

 

後藤新平は、一流の政治家であり、また超一流の国家の医師でした。 

 

 

 

 

国の医師・後藤新平

 

 

後藤新平といえば、今も台湾で最も尊敬されている日本人です。岩手県に生まれた後藤新平は、医者となり、ドイツ留学を経て、内務省の衛生局に勤務します。

 

その手腕と見識を買われ、赴任したのが、当時は風土病の宝庫と呼ばれた台湾でした。民生局長となった彼は、医者らしく綿密な調査と周到な準備を重ね、多くの困難に直面しつつも、台湾の風土病を減らし、医療制度を段階的に整えていきました。

 

この時、彼が「この男は将来が楽しみだ」と抜擢し、どんどん仕事を与えたのが、後に「武士道」を著す新渡戸稲造でした。人材育成の名手であった後藤の下には、他にも多くの人材が結集し、薫陶を受けています。台湾を再建し、独立国並みの福祉制度、産業基盤を整えて帰国した後藤を待っていたのは、関東大震災でした。この、維新後最大の災害から東京を復興させられる男は彼しかいないと、後藤はまたも「東京市長(今の知事)」として再建に携わることになりました。

 

未完におわった復興計画

目的を設定するとそのために最も効果的な手段を執ろうとする。そのために財政当局や周囲との軋轢が絶えなかったと言われています。国家100年の計にたち、画期的な発想で、関東大震災後の帝都復興を企てた後藤の復興計画。しかし、壮大すぎる計画は、反発をまねき、予算づけもままならず、その規模は当初の10分の1程度で未完におわります。

 

昭和天皇さまは、、昭和58年の記者会見で、

「それが実行されていたら戦災がもう少し軽く、東京あたりは戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時のあの計画が実行されないことを非常に残念に思っています」と言及されたました

 

新平の復興計画

多くの家屋が焼けたことを教訓に、不燃建築物の建設推進の一環として財団法人同潤会(どうじゅんかい)を発足。同会が東京・横浜に建設を進めた鉄筋コンクリートの集合住宅「同潤会アパート」は、日本の近代化を象徴する最先端の居住施設として話題になりました。

 

さらに、延焼遮断帯としての道路の役着目し、新橋から三ノ輪までの16キロに及ぶ昭和通りを建設。完成時の道幅は44メートルと、当時としては破格の広さであった。交通量の少なかった当初は、中央にグリーベルトを敷設して公園道路としています。

 

昭和通り以外にも、幅40メートルの靖国通り、36メートルの晴海通りなどを建設し、さらに正式決定は総裁退任後となったが、環状道路計画も立案した。皇居を中心に放射状に延びる道路と周囲を循環する道路を組み合わせ、将来の交通渋滞緩和を目指したもので、現在の東京の都市構造の骨格となりました。

 

彼は100年先を見据え、当時の国家予算の半額の金額を復興のために要求します。しかし、彼が要求した40億円に比べ、実際に支出されたのは5億円でした。少なすぎる予算のなかでも、着実に成果をあげた新平。この間の市長としての給料は、全額政府に返上しています。渋谷、丸の内、新宿、六本木、池袋…といった、今では全国民が知る名所は、彼が綿密な調査を重ね、地理的事情や可能性を考慮して復興させた町です。

 

医師でもあった新平。未曾有の傷をおった東京を再生させ、さらに現代にも続く繁栄の基礎をつくったのでした。

 

 

 

 新平のすごすぎる業績

 

「井戸を掘ったひとのことを忘れるな・・・」(中国のコトワザ)

胃腸薬として有名な正露丸(せいろがん)は、元々は『征露丸』と書かれており、日露戦争のさなか、大陸の風土病に悩まされていた日本の兵隊さんを助ける薬として支給され、一般にも広がった薬です。おなじように、日露戦争での経験を活かし、公衆衛生を劇的に改善し、日本の未来を大きく変えた人物がいます。その男の名こそ後藤新平です。

 

 今では想像もできないが、大正10年の乳幼児死亡は30万人を超えており、平均余命への影響も大きかった時代でした。それが、大正10年を境に、乳幼児死亡率、平均余命ともに改善に向かいます。明治になり近代的な水道が普及するものの、塩素殺菌を始めるまで実は30年を要しました。その間、人々の利便性を高める一方で、結果として水道が細菌を運搬していたのである。抵抗力の弱い乳幼児はその犠牲になっていた時代でした。

 

塩素殺菌の導入は、軍事技術の民間転用

大正の時代、東京の市長をつとめていたのが後藤新平です。後藤は、若き日ドイツに留学し、コッホ研究所で細菌に関する研究を行い、帰国後に博士号を取得した学者でもありました。いわば細菌学の権威が東京市長になったのです。

 

日露戦争で、日本を苦しめた大陸の濁った水。その水を消毒するために、陸軍は、当時最先端だった塩素による殺菌をとりいれました。そしてその知見を大胆に民間に転用したのが後藤の功績です。また後藤は、帰還兵が持ち帰るウィルスや様々な病気から日本を守るためにもう1つの知られざる闘いにも挑んできます

 

 新型コロナウィルスにも生きる教訓

 

参照:ヤフーニュース

 

 

125年前の大検疫

新型コロナウイルスが猛威をふるっています。2月末には、全世界での感染患者数は10万人にせまり、安倍総理からは、全小学校、中学校、高校の臨時休校のお願いが発信されました。ウィルスが発見された当初こそ、楽観的な報道がされましたが、驚異的な広がりをみせる未知なる敵に、あらためて感染症を抑えこむのは並大抵のことではないが明確になりました。

 

しかし、日本には検疫事業において、見習うべき先達がいたのです。その男の名も、後藤新平です。いまから125年前、戦争が終わり、コレラやチフスが荒れ狂う中国大陸から帰還する兵士23万人余をわずか3カ月あまりで検疫した壮大な水際作戦が開始されました。

 

当時、コレラは、コッホによるコレラ菌発見から日も浅く、「死病」と恐れられていた。明治時代のコレラによる日本人の死者総数は37万人に上り、明治末年の日本の全人口が2800万人程度だから、いかにコレラ禍が凄まじかったかおわかりいだけるだろう。

 

 日本では、江戸時代からコレラの流行がありましたが、明治時代になって人の移動が盛んになると、大流行が頻繁に起きるようになります。人の移動で最たるものは「戦争」ですが、日本でも戦争とともにコレラが蔓延し始めます。その最初とも言えるのが、明治10年(1877年)の西南戦争です。この年の初夏、長崎で発生したコレラは、兵士の帰還とともに大阪で流行を見せ、数カ月後には東京にも広がり始めました。当時、海軍病院では伝染病患者の収容を行っていましたが、コレラは対処法がわからないことから、海軍病院への収容は極めて危険だと判断されました。実は、西南戦争に医師として従軍していた後藤は伝染病の恐ろしさを最前線で学ぶことになったのです。

 

「その危険の恐るべきこと弾丸よりも大なるものがある」(後藤のことば)

当時はまだ、コレラ患者が出たら、隔離するしか手立てはありませんでした。しかし、コレラ患者は毎年のように発生します。早急に消毒・治療技術を開発する必要がありました。まもなく、コレラは汚水から感染することが判明します。そのコレラを防ぐために帰還兵23万人余の大検疫を行った人物こそ、医師にして臨時陸軍検疫部事務官長・後藤新平です。後藤に課せられた任務は「速やかに検疫遂行せよ」。しかしながら世界中の近代国家で、これほど大規模な軍隊の帰還を経験したところは過去にありませんでした。手本もないお、前代未聞の水際作戦に後藤は挑むことになったのです。

  

もそも検疫業務は、凱旋兵を乗せた輸送船が沖合に見えたところから始まります。沖に停めた船に検査官が乗り込み、感染症患者や死者の有無を「臨検」。停留の日数は5日。その間に発病者が出れば、避病院に隔離し、他の者も4日間停留が延長される。これらの検疫にかかわる医官や下士官、兵卒は常に自身が感染しないよう細心の注意を払い、消毒をくり返す。おそらく、現代の感染症の検疫作業も基本的な流れは同じではないでしょうか?

 

後藤は、一連の検疫チャートを脳裏に描き、壮大な施設を瀬戸内海の3つの島に夜を日に継いで建設させる。広島沖の「似島(にのしま)」の敷地2万3000坪には消毒部14棟、停留舎24棟、避病院16棟、さらに事務所、兵舎、炊事場、トイレなど139棟を建てる。下関にちかい「彦島」は全153棟、大阪近郊の「桜島」は109棟。建設に与えられた期間は、わずか3か月だった。後藤の女婿、鶴見祐輔は『後藤新平』にこう記している。

 

「その間、海を埋め、樹を切り払い、地ならしをし、家を建て、屋根を葺き、諸道具一切を運びこみ、電信、電話、電灯の設備をなし、(略)まったく類例なき大消毒缶を製造して備えつけるというのだから、まさに太閤の一夜城にも比すべき大工事であった」

 

後藤は、修羅場の陣頭指揮を振るい、気がつけば43日間連続して寝床に入っていなかったという。感染症の最前線は死にもの狂いだ。「もう一つの戦争」といわれるゆえんである。ほぼ3か月で大検疫事業は終わった。その間に検疫を通過した帰還兵の数は23万2346人、検疫船舶数687隻、そのうち患者を乗せてきた船258隻。真性コレラの患者は369人、疑似コレラ313人、腸チフス126人……と記録が残っています。

 

日本の当たり前をつくった新平

大検疫事業を完遂した後藤は、水際作戦の限界を思い知らされます。根本的に病原菌の蔓延を防ぐには、街の衛生環境、上下水道や道路、家屋の設計などが重要だと思い至り、都市づくりへとのめり込んでいきます。また医療保険の大切さも力説し、「国民皆保険」への布石を打っていくのでした。

 

後藤の決断をよみとけば、検疫事業にやりすぎはないことがよくわかります。今回の安倍首相による政治判断も、賛否のわかれるものでしょう。うまくいけば、「当たりまえ」。逆に失敗すれば、トップのせい((+_+)) 政治家の功績は、人畜無害の評論家がするものではなく、歴史がするものです。前代未聞のウィルスへの検疫対策に勝利する日がくることを願うばかりです。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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