西郷隆盛 遺訓『南洲翁遺訓』

  西郷隆盛 遺訓

 敬天愛人」

(南洲翁遺訓より)

 

 

 

 

 

 西郷 隆盛(さいごう たかもり)

生誕:文政10年12月7日(1828年1月23日)

死没:明治10年(1877年)9月24日

 

薩摩藩の出身。通称は、西郷吉之介。愛称は西郷どん。維新の三傑(西郷隆盛、大久保利道、桂小五郎)の一人であり、明治維新最大の功労者。維新後は、軍人であり政治家。

 

薩摩藩内では下級武士であったが、稀代の名君・島津斉彬に見いだされ、強い影響を受ける。斉彬の亡き後、藩の実権を握った島津久光とは折り合わず、2度の島流しにあうなど、順風満帆な出世ではけしてなかった。小松帯刀や大久保利通の尽力により藩政に復帰した後は、緊迫する日本の政情の中で、禁門の変、長州征伐、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争、江戸城無血開城など主要な局面でことごとく活躍。大久保利通とともに、政局を主導する。

 

明治維新後は、いったん薩摩に帰郷、隠遁生活を送るが、新政府側の強い要請により参議として政界に復帰。また、陸軍大将および近衛都督を兼務することで、日本の軍隊の最高責任者となる。明治6年の征韓論では、盟友であった大久保利通との政戦に敗れ下野。ふたたび鹿児島に戻り、教育に力を注ぐ(私学校)。私学校生徒の暴動に端を発した西南戦争(明治10年)では、指導者として担ぎ上げられるが、敗北。自刃する。 将器の才では幕末筆頭。古今でも類を見ない。その飾らない性格は明治天皇にも愛された。

 

「敬天愛人」とは?

 

様々な豪傑を輩出した明治維新にあって、西郷隆盛の人望と器は、突出したものがあります。最後は、西南戦争の首謀者として命をおとす悲劇もあいなって、今なお人望をあつめる英傑です。

 

明治維新の立役者となった西郷隆盛。しかし武士たちが勝ち取った新しい世の中も、蓋を開けてみれば、サラリーはカットされ、お家は断絶。涙ばかりの保証をうけとってみても、商売するにも器量はたりず、そのほとんどが露頭に迷うこととなりました。西郷さん自身、新政府をけん引するはずが、「明治6年の変」では、失脚。そして明治10年、西南戦争をおこし、逆賊となって憤死することとなります。西郷は大久保利通とともに日本の近代化を進めてきた功臣・元勲です。しかし彼自身が創設した陸軍が、西郷を追い詰める皮肉な結果をうみました。

 

西郷は天才肌とか極めて優秀というタイプの人間ではありませんでしたが、飾らない人柄とそこから生まれる機転で上は明治天皇、下は地元民まで広く愛されました。結果的に敵対し、京都で新政府軍の指揮を取った大久保利通でさえ、西郷が死んだと聞かされて号泣したといいます。生前、写真を撮ることを嫌がり遺影も、著書さえも残さなかった西郷さん。とくに死後は、国賊となったことで、西郷さんを称えることをはばかる空気がありました。しかし、その人柄を愛する人々によって、「南洲遺訓」がまとめられ、その人柄が現代に伝わっています。驚くべきことに、この遺訓をまとめたのは、かつての宿敵である幕府側の雄藩・庄内藩の藩士たちでした。

 

「敬天愛人」と西郷隆盛

「敬天愛人」とは、西郷隆盛が終生、自己修養の目的とし、好んで使っていた言葉です。西郷さんと同じ薩摩出身の稲盛和夫(京セラ・元JAL会長)をはじめ多くの経営者が社是や座右の銘として用いています。

 

 『南洲翁遺訓』の第二十四にこうあります。

 

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」

(現代訳)「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。」

 

ある日、陸軍大将であった西郷が、坂道で苦しむ車夫の荷車の後ろから押してやったところ、これを見た若い士官が西郷に「陸軍大将ともあろう方が車の後押しなどなさるものではありません。人に見られたらどうされます」と言いました。すると、西郷は憤然として次のように言い放ったといいます。

 

「馬鹿者、何を言うか。俺はいつも人を相手にして仕事をしているのではない。天を相手に仕事をしているのだ。人が見ていようが、笑おうが、俺の知ったことではない。天に対して恥じるところがなければ、それでよい」

 

他人の目を気にして生きる人生とは、相手が主役で自分は脇役です。正々堂々の人生とは、真理と一体になって生きる作為のない生き方です。天とともに歩む人生であれば、誰に見られようとも、恥をかくことはありません。西郷隆盛は、志士や英雄の闊歩した明治維新のなかでも特に人望のあった日本人でした。人を愛する西郷さんは、味方はもちろん、戊辰戦争で敵方であった勢力にも、大変慕われていました。

 

新政府軍に敗れた庄内藩士らは、厳格な処罰が下ることを覚悟するなか、西郷さんの指示により極めて寛大な処置がなされ、そのことに非常に感激したそうです。明治の時代に入ると、西郷さんを訪ね、藩士だけでなく庄内藩の殿さま自身が門下生となり、教えを乞うこととなりました。ここでも西郷さんの人望は篤く、西南戦争の際には、庄内藩からの留学生2名が薩軍に参戦し戦死しているほどです。

  

 この「敬天愛人」の逸話を記録した『南洲翁遺訓』は、庄内藩士たちが遺徳をたたえ独自に編纂したものです。 信念に従い最期は西南戦争を指揮し、不遇の死をとげた西郷さんでしたが、だれにも後ろ指をさされない「敬天愛人」の生き様は、いまなお尊敬される偉人中の偉人です。 

 

敵にも愛された人徳

松浦玲氏の『勝海舟と西郷隆盛』によると、西郷の死から2年後の明治12年(1879)に勝海舟は、隆盛を偲んで留魂碑を建立している。朝敵として征討された男の記念碑のことなど誰も言い出せないような時期に、海舟は独力でこの碑を建立しています。 当初は東京都葛飾区の浄光寺という寺に建てられたそうだが、海舟の死後に東京都大田区の洗足池の畔にある海舟の墓域に移されています。 碑の表には西郷の『獄中有感』と題された漢詩が彫られ、裏面には勝海舟の隆盛に対する熱い思いが綴られている。(原文は漢文)

当時薩摩藩出身の者は数多く生存していたにもかかわらず、西南戦争直後に新政府軍に反旗を翻した西郷を褒め称えることが出来る雰囲気ではなかったことが考えられる。そして勝海舟は西郷の七回忌の頃に、当時明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟への書状の中で、西郷の罪科を取り消し、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを提案しています。

 

この書状は明治天皇のもとに届き、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、隆盛が徳之島に遠島されていた時代に愛加那との間に生まれた菊次郎は外務書記生として米国公使館勤務が決まりました。

 

隆盛の弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、勝海舟は徳川家から借金までして、寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡したといわれています。

 

西郷隆盛と勝海舟は、敵同士の仲でした。そんな敵をも魅了した西郷の魅力。そして明治政府を敵に回してまで、西郷の名誉回復を図った勝の行動力。大河ドラマに描かれない本当のドラマがあったのではないでしょうか?上野にたつ、西郷さんの銅像は、こうした勝や山岡鉄舟の想いにそい、多くの庶民の献金によって建立されたものです。維新の立役者でありながら、最期は非業の死をとげた西郷隆盛。しかしその生涯は、「敬天愛人」の遺訓のとおり、人や天から愛された人生だったのではないでしょうか?

 

 『せごどん』の『器』と明治維新 

 

人間には「器量」という要素があります。いわゆる女性の見た目が良いといったことではなく、人間性というもの、性格、人柄、人望、能力、などの事柄により「あの人は器量人である」とか「天下を治める器量だ」とか呼ばれる場合の「器量」です。

 では、その見分け方とは?

 

①金や社会的地位がなくても、黙っていても、ただその場にいるだけで自然と人が集まってくる。 

②この人といると、安心感がある。 

③自分から上に立とうというのではなく、周囲の人間たちから「押し上げられて」上に立つ。

 

こんなところでしょうか。

 

様々な豪傑を輩出した明治維新にあって、西郷隆盛の人望と器は、突出したものがあります。薩摩出身で盟友であった大久保利通の不人気ぶりとは対照的です。明治維新の立役者でありながらも、最後は、西南戦争の首謀者として命をおとす悲劇もあいなって、今なお人望をあつめる英傑です。

 

才能にたけた大久保は、新国家建設のため奔走し、ほとんどの重要事項を専任で実現させています。人気はなくても、明治維新は、大久保ひとりでやりとげた!といってもいい実現力をもつ男です。一方西郷さんは、ご自身の能力もさることながら、その人望で、敵も味方も虜にし、おなじ風呂敷にひょいっと入れてしまう豪快さが持ち味でした。 大久保と西郷、2人の相反する才能のぶつかりあいが明治維新という革命を成功させたのです。

 

江戸城無血開城と西郷さん

 

明治維新は、あらゆる階層をひっくり返した革命です。しかし大きな混乱もなく、体制を引き継いだ最大の功労者は、この西郷さんです。西郷さんの大人物ぶりを象徴するエピソードは、江戸無血開城に導いた薩摩屋敷における勝義邦(海舟)との会見です。

 

勝海舟の回顧録より(勝義邦『氷川清話』より)

いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私一身にかけてお引き受けします。」西郷のこの一言で江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ  

 

この部分だけでも、西郷の人となりが分かるが、圧巻なのはこの続きである。 このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも、終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ

 

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革命の際、敵を倒すまでは簡単なこと。アラブの民主化のように、ここまでなら世界中の国が達成しています。

しかし西郷さんは、敵をゆるし、さらに優秀な人材を新政府に招き入れることに成功しています。味方はもちろん、敵にこそ愛される西郷さんの「器」は、史上まれにみる大風呂敷だったのではないでしょうか?

 

 

■西郷さんの豪快すぎるエピソード

維新後も官職を乞わず、他の志士たちが着飾った洋装で会議に挑むのに対し、西郷さんはふんどしに着流し一枚で会議にあらわれたとの逸話も残っています。そして何より豪快なのは、「西郷隆盛」という名にまつわるエピソードです。中世の武士社会では、幼名や通称、そして忌み名など、多くの名前をつかいわけるのが一般的でした。そんな中、一番使用されないのが本名です。実は「隆盛」という名前は、父親の名。西郷が転戦中、友人が間違って登録してしまったというのが「隆盛」だったのです。明治2年、明治天皇から位階をさずかる際にも、「隆盛」の名前が列記され、西郷さんは、本名を「隆盛」に変更するに至りました。大の写真嫌いで、1枚の写真ものこらず、本名さえ借り物の西郷さん。そんな人柄が多くの人をひきつけたのかもしれません。

 

『南洲翁遺訓』には、「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」との一文が添えられています。これは無血開城の交渉の中で、幕府側の交渉をになった山岡鉄舟を称える時に用いた文章です。

 

西郷の一生を振り返ると,人の失敗を許し,人のために生きていたことが分かります。ここに人間としての器(うつわ)の大きさがわかります。 山岡はもちろん、西郷さんこそ、「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの」の最たる者だと感じます^^

 

 西郷隆盛と大久保を生んだ「郷中」教育

 

西郷隆盛と大久保利通は、同じ町内に住み、ともに同じ郷中に通うなど、仲が良かったことが知られてます。 子どもの頃に西郷の家でよく大久保は西郷家の人々と食事を供にしていたそうです。

 

西郷は幕末に2度、島流しになっています。1回目は安政の大獄から西郷を守るためでしたが、2度目は薩摩藩主の父で藩の実権者だった島津久光の怒りをかってしまい刑を受けました。 西郷は英明君主といわれた久光の兄である島津斉彬に発掘され薫陶を受け重用されましたが久光には嫌われました。 大久保は西郷の1回目の島流し後に久光が囲碁好きを知って囲碁を習い久光に近づき久光にその才を買われ重用されていました。 大久保は西郷の島からの召還を久光に嘆願します。特に2回目の島流しの召還のときは久光のくわえていたキセルに歯の跡がつくほどに久光は西郷を嫌っていましたが大久保の必死な嘆願によって西郷は召還され、その後に倒幕運動で大活躍します。 西郷は表舞台で大久保は裏舞台でとお互いの役割を分けて二人三脚で薩摩藩を指導し維新の原動力となり明治維新を達成しました。 

 

1つの町内会が、明治維新から日露戦争までやった!郷中の奇跡

 

「負けるな」・「嘘をいうな」・「弱い者をいじめるな」                    

郷中(ごじゅう)の戒めより

 

主な加治屋町出身の偉人

 

西郷隆盛    陸軍元帥

大久保利通  初代内務卿

大山巌     陸軍大臣

東郷平八郎  連合艦隊司令長官

黒木為楨    陸軍大将

有馬新七    尊皇攘夷志士

吉井友実     枢密院顧問

山本権兵衛   内閣総理大臣

村田新八    砲隊学校監督  他

 

平安時代からの歴史を誇る島津藩。しかし、西郷隆盛は極貧の下級武士であり、西郷を育んだ鍛冶屋町も、おなじく苦しい生活を強いられる武士たちの住む小さなコミュニティーでした。大河ドラマ「せごどん」で盛り上がる鹿児島に現地調査にいった際には、予想以上に小さい「加治屋町」のエリアに驚くことになります。「1つの町内会が、維新から日露戦争までやった」とは司馬遼太郎さんの言葉です。郷中教育は戦国時代から続く伝統があったとされ、他の地域がとうの昔に辞めてしまった古えの慣習を薩摩藩では大事に守っていました。

 

幕末の薩摩藩には、33の郷中があり、中でも加治屋町郷中では、西郷隆盛や大久保利通、大山巌。日露戦争でバルチック艦隊をやぶった東郷平八郎など多くの偉人を輩出しています。この加治屋町は、200m四方の小さな町です。わずか70戸ほど、現在でいえば中規模のマンションほどの小さなコミュニティーのなかで、生まれた子ども達が、明治維新から、日露戦争までを成功させる人材になっていくのでした。

 

薩摩の国是?「てげ」の思想

司馬遼太郎の著書「この国のかたち」に次のような記述があります。

 

“テゲテゲという方言が薩摩にある。テゲだけでもよい。『将たる者は下の者にテゲにいっておく』そういう使い方をする。薩摩の旧藩時代、上級武士にとって配下を統御する上で、倫理用語ともいうべきほどに重要な言葉だった。上の者は大方針のあらましを言うだけで、こまごました指図はしないのである。そういう態度をテゲとかテゲテゲとかいった。例えば、大将(薩摩では差引)を命じられた者は、命令はテゲテゲにし、細部は下級者に任せねばならないとされた。

 

戊辰戦争のときの薩摩軍をひきいた西郷隆盛や、日露戦争のとき野戦軍の総司令官だった大山巌、また連合艦隊を統率した東郷平八郎という三人の将領の共通点をみればわかる。みなテゲを守った。”

 

日露戦争で連合艦隊を率い当時世界最強といわれたバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎は、鍛冶屋町の出身です。戊辰戦争にも参戦し維新後には、海軍を学ぶために海外に留学することとなります。西南戦争の際には、多くの郷中の仲間たちが西郷さんと道をともにし、命を落とす中、東郷は、海外にいたことで命が助かることとなります。

 

もし日本にいれば、間違いなく西郷さんについていったと語った東郷平八郎。ちょっとしたボタンの掛け違いが、東郷を連合艦隊総督に押し上げ、結果、本人の命だけでなく、日本の命運をも変えることとなったのです。東郷は、世界三大提督との名声を得たほか、日本人として初めて雑誌「TIME」の表紙を飾っています。また、日本と同じくロシアの拡大政策に悩んでいた北欧のフィンランドでは、日露戦争の日本の勝利を祝い「トーゴービール」が発売されるほどの人気となりました。

 

西郷さん、大久保利通だけでなく、東郷平八郎まで排出した加治屋町には、どんな秘密があったのか? あらためて歴史の不思議を感じるばかりです。

 

盟友 西郷隆盛との友情と別れ 

       

維新後の2人

維新後も2人は「版籍奉還」「廃藩置県」という政治改革を断行し成功させます。 西郷と大久保に距離が出来始めるのは、「征韓論騒動」からです。

 

征韓論とは明治初期の対朝鮮強硬論です。 明治初年に維新政府は当時鎖国をしていた朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉をしました。しかし、朝鮮は維新政府の国書受け取りを拒絶しました。 大久保らが外遊中も西郷を中心とした留守内閣は粘り強く朝鮮と交渉しようとしますが朝鮮は頑なに拒絶したので日本国内で「武力をもって朝鮮を開国させる」という征韓論が起こり、特にエネルギーをもてあましていた薩摩士族を中心に日本国内が紛糾します。

 

西郷は征韓論の中心で朝鮮の武力討伐を主張したように思われがちですが、西郷は朝鮮との戦争を望んだのではなく「自分が朝鮮にいって話し合って事を治める」として遺韓大使として朝鮮に渡ることを望んでいました。 西郷は自らが命を捨てる覚悟で遺韓大使として朝鮮に渡り、頑迷な朝鮮に対し日本の士族が朝鮮に攻め込むことをチラつかせつつ、開国して日本と手を結ぶことを説得して事を治めながら「清国(中国)・朝鮮・日本の三国が手を結んで西洋列強の脅威に対抗する」という西郷の師である島津斉彬の構想を実現し日本にとって仮想的であるロシアの南下政策を阻止しようとしたと思われます。

 

外遊から帰国した大久保ら外遊組は西洋列強の諸外国を見てその脅威を肌で感じています。その当時の日本は貧しい農業国家で産業が育っていません。また、江戸時代まで政治も国防も武士が行いその他の階級の人々は参加していなかったのに明治になって急に国民として政治に参加し国を守れと言っても無理な話です。 西郷が朝鮮に渡って殺されてしまったら戦争になります。当時の日本には朝鮮や戦争に介入してくるであろう西洋列強との戦争を行う国力はありません。 大久保らは「朝鮮と戦争をするよりも国民の教育を充実させて国民を育て、国民皆兵の近代的な軍隊を建設し産業を興すことを優先させるべき」と主張して西郷の遺韓大使に反対しました。そして西郷と大久保の全面対決となります。

 

西南戦争へ・・・

一度は決まっていた西郷の遺韓大使決定も、大久保はこれをくつがえします。 西郷はこれにより鹿児島に下野することとなります。そして、西郷は維新最大の功臣でありながら維新後に不要な存在となった薩摩士族とともに西南戦争で散っていきました。

 

大久保も西郷と相打ちのように西南戦争の翌年に不平士族によって暗殺されました。 西郷と大久保は盟友であり「征韓論」で対決して分かれましたが、考え方の違いであり最後まで互いを認め合っていました。 征韓論で敗れ鹿児島に下野しようとして西郷が大久保に会いにいったときに大久保は政府を去ろうとする西郷を「また悪い癖がでた」として怒ったといいます。

 

鹿児島に帰郷後、政府について問われた時に西郷は大久保の手腕を高く評価しており「一蔵どん(大久保)が居れば大丈夫!」と言ったそうです。 西南戦争後、日本国内の内乱は無くなり真の統一国家となりました。

 

盟友 西郷隆盛との別れ

西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と言ったようだ)。

西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んでいたりしていた。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている

 

大久保は晩年に「明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ。」といったと言われています。

 

西郷・大久保を失った日本は伊藤博文・山縣有朋らに委ねられ日露戦争後に大正・昭和初期の狂った軍隊・暗い歴史に向かいました。 第二期を大久保が担当していればその後の「日本のかたち」は違ったものとなったかもしれません。 

 

■西郷隆盛遺訓『南洲翁遺訓』と庄内藩のお話し

 

『南洲翁遺訓』は旧出羽庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめたものです。

敵だったはずの庄内藩の藩士たちが、遺訓をまとめたというエピソードだけでも、西郷さんの器の大きさが分かるのではないでしょうか?

 

西郷と庄内藩士の交流

『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』という一冊の書籍がありますこれは西郷に心服していた旧庄内藩士達が、西郷から直接聞いた教訓等を一冊の本にしてまとめ、刊行したものです。

 

庄内藩と言えば、鳥羽・伏見の戦いの契機ともなった江戸薩摩藩邸の焼き討ちを行った主力藩であり、戊辰戦争でも執拗果敢に薩長を含む新政府軍に抵抗した藩です。そのため、庄内藩主並びに藩士らは、新政府軍に降伏した際、厳罰な処分が下ることを覚悟していたのですが、参謀の薩摩藩士・黒田了介(くろだりょうすけ。後の清隆)は、庄内藩に対し、極めて寛大な処置を取りました。黒田の温情ある処置に対し、庄内藩士は非常に感激したのですが、実はこれらの処置は、西郷が陰で黒田に指示して行わせていたのです。

 

そのことを後日知った旧庄内藩の人々は、西郷を大変慕うようになり、明治になると、西郷を東京や鹿児島に訪ね、教えを請うようになりました。

 

明治3(1870)年8月には、旧庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、薩摩遊学を計画し、旧藩士七十六人を引き連れて、鹿児島の西郷の元を訪ねました。酒井忠篤と旧庄内藩士らは、翌明治4(1871)年3月まで鹿児島に逗留し、西郷に教えを請い、薩摩の軍事教育などを学んだのです。また、後年に勃発した西南戦争にも、旧庄内藩からの留学生二名が薩軍に参戦し、戦死しています。これほど、西郷と旧庄内藩士との交流は、大変深いものだったのです

  

 

 『南洲翁遺訓』全文

 

\\●1~7条・20条 … 為政者の基本的姿勢と人材登用

●8~12条 … 為政者がすすめる開化政策

●13~15条 … 国の財政・会計

●16~18条 … 外国交際

●21~29条・追加の2条 … 天と人として踏むべき道

●30~41条・追加の1条 … 聖賢・士大夫あるいは君子

 

 

廟堂(びようどう)に立ちて大政(たいせい)を為すは天道を行ふものなれば、些(ちつ)とも私を挟(はさ)みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操(と)り、正道を蹈(ふ)み、広く賢人を選挙し、能(よ)く其の職に任(た)ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫(そ)れ故(ゆえ)真に賢人と認る以上は、直に我が職を譲る程ならでは叶(かな)はぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其の人を選びて之れを授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之れを愛(めで)し置くものぞと申さるるに付、然らば『尚書』仲虺(ちゆうき)之誥(こう)に「徳懋(さか)んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相ひ配し、功と賞と相ひ対するは此の義にて候ひしやと請問(せいもん)せしに、翁欣然(きんぜん)として、其の通りぞと申されき。

 

賢人百官を総(す)べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ縦令(たとい)人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁(ざつぱく)にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云ふ様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。

 

政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其の他百般の事務は皆此の三つの物を助(たすく)るの具也。此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして他を先にするは更に無し。

 

万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし驕奢(きようしや)を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創(そうそう)の始(はじめ)に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾(びしよう)を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷(まじき)也。今となりては、戊辰の義戦も偏(ひと)へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻(しき)りに涙を催(もよお)されける。

 

或る時「幾歴辛酸志始堅。丈夫玉砕愧甎全。一家遺事人知否。不為児孫買美田。」との七絶を示されて、若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したりとて見限られよと申されける。

 

人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引き起すもの也。其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才芸有りて用便なれば、用ゐざればならぬもの也。去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。

 

事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一時の詐謀を用う可からず。人多くは事の指支(さしつか)ふる時に臨み、作略を用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思へども、作略の煩ひ屹度(きつと)生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以て之れを行へば、目前には迂遠なる様なれども、先きに行けば成功は早きもの也。二〇何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば行はれ難し。人有りて後ち方法の行はるるものなれば、人は第一の宝にして、己れ其の人に成るの心懸け肝要なり。

 

広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我が国の本体を居(す)ゑ風教を張り、然して後徐(しず)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否(しか)らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡(いび)して匡救(きようきゆう)す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。

 

忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、万世に亘り宇宙に弥(わた)り易(か)ふ可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。

 

一〇

人智を開発するとは、愛国忠孝の心を開くなり。国に尽し家に勤むるの道明かならば、百般の事業は従て進歩す可し。或(あるい)は耳目を開発せんとて、電信を懸け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの器械を造立し、人の耳目を聳動(しようどう)すれども、何故電信鉄道の無くて叶はぬぞ欠くべからざるものぞと云ふ処に目を注がず、猥りに外国の盛大を羨み、利害得失を論ぜず、家屋の構造より玩弄物に至る迄、一一外国を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費せば、国力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限りの外有る間敷也。

 

一一

文明とは道の普(あまね)く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些(ち)とも分らぬぞ。予嘗(かつ)て或人(あるひと)と議論せしこと有り、「西洋は野蛮じや」と云ひしかば、「否(い)な文明ぞ」と争ふ。「否な否な野蛮ぢや」と畳みかけしに、「何とて夫(そ)れ程に申すにや」と推せしゆゑ、「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢや」と申せしかば、其の人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。

 

一二

西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑑誠となる可き書籍を与へ、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡(かんか)孤独を愍(あわれ)み、人の罪に陥いるを恤(うれ)ひ給ひしは深けれども、実地手の届きたる今の西洋の如く有りしにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明ぢやと感ずる也。

国の財政・会計[編集]

 

一三

租税を薄くして民を裕(ゆたか)にするは、即ち国力を養成する也。故に国家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐(しい)たげぬもの也。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧(きよくちしようけい)の俗吏を用ゐ巧みに聚斂(しゆうれん)して一時の欠乏に給するを、理材に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげるゆゑ、人民は苦悩に堪へ兼ね、聚斂を逃んと、自然譎詐狡猾(きつさこうかつ)に趣き、上下互に欺き、官民敵讐(てきしゆう)と成り、終に分崩離拆(ぶんぽうりせき)に至るにあらずや。

 

一四会

計出納は制度の由(よつ)て立つ所ろ、百般の事業皆是れより生じ、経綸(けいりん)中の枢要(すうよう)なれば、慎まずはならぬ也。其の大体を申さば、入るを量りて出るを制するの外更に他の術数無し。一歳の入るを以て百般の制限を定め、会計を総理する者身を以て制を守り、定制を超過せしむ可からず。否(しか)らずして時勢に制せられ、制限を慢(みだり)にし、出るを見て入るを計りなば、民の膏血(こうけつ)を絞るの外有る間敷(まじき)也。然らば仮令(たとい)事業は一旦進歩する如く見ゆるとも、国力疲弊して済救す可からず。

 

一五

常備の兵数も、亦会計の制限に由る、決して無限の虚勢を張る可からず。兵気を鼓舞して精兵を仕立てなば、兵数は寡(すくな)くとも、折衝禦侮(ぎよぶ)共に事欠く間敷也。

 

一六

節義廉恥(れんち)を失ひて、国を維持するの道決して有らず、西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨(のぞ)みて利を争ひ義を忘るる時は、下皆之れに倣(なら)ひ、人心忽(たちま)ち財利に趨(はし)り、卑吝(ひりん)の情日日長じ、節義廉恥の志操(しそう)を失ひ、父子兄弟の間も銭財を争ひ、相ひ讐視(しゆうし)するに至る也。此(かく)の如く成り行かば、何を以て国家を維持す可きぞ。徳川氏は将士の猛き心を殺(そ)ぎて世を治めしかども、今は昔時戦国の猛士(もうし)より猶一層猛(たけ)き心を振ひ起さずば、万国対峙(たいじ)は成る間敷也。普仏の戦、仏国三十万の兵三ヶ月の糧食(りようしよく)有て降伏せしは、余り算盤(そろばん)に精(くわ)しき故なりとて笑はれき。

 

一七

正道を踏み国を以て斃(たお)るるの精神無くば、外国交際は全(まつた)かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却(かえつ)て破れ、終に彼の制を受るに至らん。

 

一八

談国事に及びし時、慨然(がいぜん)として申されけるは、国の陵辱(りようじよく)せらるるに当りては縦令(たとい)国を以て斃(たお)るるとも、正道を践(ふ)み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日金穀(きんこく)理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安(こうあん)を謀(はか)るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜(おと)しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也。

 

一九

古より君臣共に己れを足れりとする世に、治功(ちこう)の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下下の言も聴き入るるもの也。己れを足れりとすれば、人己れの非を言へば忽(たちま)ち怒るゆゑ、賢人君子は之を助けぬなり。

 

二一

道は天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己(こつき)を以て終始せよ。己れに克(か)つの極功(きよくごう)は「毋意毋必毋固毋我(いなしひつなしこなしがなし)」と云へり。総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能(よ)く古今の人物を見よ。事業を創起する人其の事大抵十に七八迄は能く成し得れども、残り二つを終り迄成し得る人の希(ま)れなるは、始は能く己れを慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕(あら)はるるなり。功立ち名顕はるるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼(きようく)戒慎の意弛(ゆる)み、驕矜(きようきよう)の気漸(ようや)く長じ、其の成し得たる事業を負(たの)み、苟(いやしく)も我が事を仕遂(とげ)んとてまづき仕事に陥いり、終(つい)に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、睹(み)ず聞かざる所に戒慎するもの也。

 

二二己に克つに、事事物物時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼(かね)て気象(きしよう)を以て克ち居れよと也。

 

二三

学に志す者、規模を宏大にせずばある可からず。去りとて唯ここにのみ偏倚(へんい)すれば、或は身を修するに疎(おろそか)に成り行くゆゑ、終始己れに克ちて身を修する也。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬものと思へよと、古語を書て授けらる。

 

恢宏其志気者。人之患。莫大乎自私自吝。安於卑俗。而不以古人自期。

古人を期するの意を請問(せいもん)せしに、尭舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよとぞ。

 

二四

道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。

 

二五

人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。

 

二六

己れを愛するは善からぬことの第一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出来ぬも、功に伐(ほこ)り驕謾(きようまん)の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己れを愛せぬもの也。

 

二七

過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し。過を悔しく思ひ、取り繕はんとて心配するは、譬へば茶碗を割り、其の欠けを集め合せ見るも同にて、詮もなきこと也。

 

二八

道を行ふには尊卑貴賤の差別無し。摘んで言へば、尭舜は天下に王として万機の政事を執り給へども、其の職とする所は教師也。孔夫子は魯国を始め、何方へも用ゐられず、屡々困厄に逢ひ、匹夫にて世を終へ給ひしかども、三千の徒皆な道を行ひし也。

 

二九

道を行ふ者は、固より困厄(こんやく)に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔(など)に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管(ひたす)ら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥(いよいよ)道を行ひ道を楽む可し。予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。追加二漢学を成せる者は、弥漢籍に就て道を学ぶべし。道は天地自然の物、東西の別なし、苟も当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏伝を熟読し、助くるに孫子を以てすべし。当時の形勢と略ぼ大差なかるべし。

 

三〇

命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付き、孟子に、「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之れに由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也。

 

三一

道を行ふ者は、天下挙て毀(そし)るも足らざるとせず、天下挙て誉るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。其の工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟読して会得せよ。

 

三二道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也。司馬温公は閨中(けいちゆう)にて語りし言も、人に対して言ふべからざる事無しと申されたり。独を慎むの学推(おし)て知る可し。人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒む可し。

 

三三

平日道を蹈まざる人は、事に臨みて狼狽し、処分の出来ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生処分有る者は動揺せずして、取仕抺も能く出来るなり。平日処分無き者は、唯狼狽して、なかなか取仕抺どころには之れ無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非れば、事に臨みて策は出来ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。

 

三四

作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其の跡を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。唯戦に臨みて作略無くばあるべからず。併し平日作略を用れば、戦に臨みて作略は出来ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆゑ、あの通り奇計を行はれたるぞ。予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊か濁るまじ、夫れ丈(だ)けは見れと申せしとぞ。

 

三五

人を籠絡して陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之れを見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬られぬもの也。

 

三六

聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚(とて)も企て及ばぬと云ふ様なる心ならば、戦に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を読み、其の処分せられたる心を身に体し心に験する修業致さず、唯个様(かよう)の言个様の事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論ずるとも、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空く読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。

 

三七

天下後世迄も信仰悦服せらるるものは、只是れ一箇の真誠也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗(か)ず挙て数へ難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でて、誠の篤き故也。誠ならずして世に誉らるるは、僥倖の誉也。誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也。

 

三八

世人の唱ふる機会とは、多くは僥倖の仕当てたるを言ふ。真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。平日国天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはづみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。

 

三九

今の人、才識有れば事業は心次第に成さるるものと思へども、才に任せて為す事は、危くして見て居られぬものぞ。体有りてこそ用は行はるるなり。肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をも見ることならぬ様になりたりとて嘆息なされ、古語を書て授けらる。

 

夫天下非誠不動。非才不治。誠之至者。其動也速。才之周者。其治也広。才与誠合。然後事可成。

 

四〇

翁に従て犬を駆り兎を追ひ、山谷を跋渉して終日猟り暮し、一田家に投宿し、浴終りて心神いと爽快に見えさせ給ひ、悠然として申されけるは、君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなりと。

 

四一

身を修し己れを正して、君子の体を具ふるとも、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬へば数十人の客不意に入り来んに、仮令何程饗応したく思ふとも、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄ふ可き様有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なりとも、数に応じて賄はるる也。夫れ故平日の用意は肝腎ぞとて、古語を書て賜りき。

 

文非鉛槧也。必有処事之才。武非剣楯也。必有料敵之智。才智之所在一焉而巳。

 

追加一事に当り思慮の乏しきを憂ふること勿れ。凡そ思慮は平生黙坐靜思の際に於てすべし。有事の時に至り、十に八九は履行せらるるものなり。事に当り卒爾に思慮することは、譬へば臥床夢寐(むび)の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し 

 

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