日本一の大地主・本間家訓と宗久

■本間家家訓

 

1.忠君愛国は国民な本分なり。義勇以て公に報じ、一旦緩急あれば、家を顧みずして国家のために尽くせ。

2.神を敬い仏を崇ぶは誠心誠意を喚起するゆえんなり。一日も信仰の念をゆるがせにするべからず。

3.公共事業に全力を尽くし、公益のためには財をおしむなかれ。

4.貧をあわれみ弱をたすけ、盛んに陰徳を施すべし。

5.勤倹の二字は先祖由来の厳訓たり。よろしく服膺してその功徳を発揮せよ。

6.深く子弟の教育に注意し、忠孝の心を涵養すべし。

7.富豪の者と縁組みすべからず。すべからく清素なる家庭の子女と婚を結ぶべし。

8.世態人情を究め、心身を修養するは、一家を治むるにおいて必要なることに属す。宗家の嗣子なる者は必ず全国を漫遊すべし。

9.祖先を尊ぶは我が国風の美なるゆえんなり。一家におけるもまたしかり。故に一家の大事は必ず祖先に報告し、しこうして後決行せよ。

10.家庭の静粛は長幼の序を厳にするにあり。決してみだるることあるべからず。

11.勧懲の制を設け、農事を推奨し、小作人を優遇すべし。

12.額に汗して得たるものにあらざれば真の財産にならず。すべからく投機事業と会社事業を排斥せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本間家とは?

 

米どころとして有名な山形県庄内平野。いまではのどかな農村地帯との印象が強い地域ですが、「米」が経済の中心だった江戸時代、庄内平野は日本の経済の中心地の1つでした。とくに、北前船が発達すると、山海の産物の集積地として発達し、特出すべき商家が誕生します。その商家こそが、「本間家」です。

 

本間家は酒田を拠点に金融業や米取引、そして北前船交易などで莫大な富を築き、新田開発にも力を注ぎました。庄内藩は譜代大名の酒井家が幕末まで統治しましたが、その石高は13万石ほど。これに対し、本間家の財力は20万石規模に相当していたとされ、その繁栄ぶりは「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれたほどでした。

 

 本間家の秘密

 

平成30年9月、NHKの人気番組「ブラタモリ」では、酒田が特集されました。その際、タモリさんは、本間家を訪問。本間家11代当主本間万紀子さんが案内した際に、あまたある美術品書画骨董の中から、徳川斉昭公の掛軸が紹介されました

 

掛け軸には、「満而不溢所以長守富也」と揮毫され、その意味は、「満ちて溢れざるは長く富を守るゆえんなり」となります。

ある研究論文によると、これが本間家の家訓とされているといわれます。

 

日本一の大地主・本間家の歩み

本間家はもともと佐渡の豪族で、血筋をさかのぼると関東の武士だったといわれます。上杉景勝に反逆したため滅ぼされますが、一族の中には上杉方に味方したものもいました。彼らは会津に国替えとなった上杉家に付き従い、その中で酒田に移り住んだ一族は武士の身分を捨て、江戸時代に商人となりました。

 

その繁栄は昭和担っても続き、戦前までは、日本一の大地主として知られ、戦後も、中核企業が倒産するなど危機を迎えるものの、いまも庄内の地で、脈々とその命脈を保っています。本間ゴルフ創業者の本間敬啓、裕朗兄弟は酒田本間氏庶流にあたるそうです。

 

庄内藩主である酒井家は圧倒的な経済力を誇る本間家を何度も頼りにし、本間家もまた忠実に応えました。特に3代当主の本間四郎三郎(光丘)は、なんと藩主から藩政改革を任せられて奔走。また資財を投げうって海岸に防風林をつくったり、酒田港に灯台を設けるなどしました。さらに飢饉に備えて米を大量に備蓄して、のちに多くの領民の命を救いました。

  

それを物語るのが天保11(1840)年に持ち上がった「三方領地替え」という国替えの命令が老中・水野忠邦によって下されたときでした。酒井家が越後長岡へ転封されることを知った領民は幕府に直訴して命令の撤回を訴え。本来なら死罪になるところですが、この行動を幕府は「義民」と称賛して命令を撤回。この運動も本間家が支援したといわれており、酒井家は江戸時代を通じて一度も国替えがありませんでした。

 

また幕末の動乱期には、庄内藩を人心共に支え、新政府軍の進撃を幾度となく撃退し、最後まで領内への敵の侵入を許しませんでした。維新後も、引き続き日本最大級の大地主ではあったものの、三井家や住友家が、時の権力者と結びつき、財閥化を加速させていくなか、起業にはあまり執心せず一地方企業家にとどまることとなります。しかしながら、防風林および灌漑事業などのインフラ整備に大いに貢献し酒田の近代化に尽力した点をみれば、家訓に従って「家業」を守りつつ、なおかつ国や藩の大事には、政局を動かすほどの活躍をみせました。

 

お金は、「稼ぐよりも使う方が難しい」とは、世界一の資産をもつビルゲイツ氏の発言です。日本一の大地主、本間家は、日本一稼ぎ、日本一社会に貢献した類まれな一族だったのではないでしょうか? 

 

本間家が支えた庄内藩 最強伝説

 

庄内藩主である酒井家は圧倒的な経済力を誇る本間家を何度も頼りにし、本間家もまた忠実に応えました。特に3代当主の本間四郎三郎(光丘)は、藩主から藩政改革を任せられて奔走。また資財を投げうって海岸に防風林をつくりました。さらに飢饉に備えて米を大量に備蓄して、のちに多くの領民の命を救っています。

 

薩長をしりぞけた「庄内藩」最強伝説

庄内藩は、徳川四天王として有名な酒井家が治めた雄藩で、国替えが多かった江戸時代にあって、300年近く酒井家がおさめた珍しい藩でした。その繁栄を支えたのは本間家の財力であったことは言う間でもありません。

 

時代の趨勢が決まり、敗色濃厚となった幕府側の勢力。奥州の各藩は、会津を中心に最後の抵抗を見せます。商人の中には、新政府軍に肩入れすることで、利権にありつこうとする一派も登場し、まさに混沌とした状況となりました。そんな中、本間家は、損得をこえ、忠義をつらぬき、酒井家を全面的にバックアップ。豊富な資金を背景に、最新型の銃器で武装した庄内藩士たちは、侵攻する敵を次々に破りました。しかし、激戦を繰り広げる中、会津藩や米沢藩など周辺の諸藩が次々と新政府軍に降伏したため庄内藩も戦闘を停止しますが、最後まで領内への敵の侵入を許しませんでした。

 

戊辰戦争といえば、薩摩・長州(薩長)に代表される「官軍」の一方的な勝利というイメージが強いものの、しかし実際は、紙一重の戦いも多く、反薩長の英雄「河井継之助」が率いた長岡藩、そして本間家が支えた庄内藩は「官軍」を寄せつけず、薩摩兵と互角に戦い局地戦では、薩長を打ち負かしています。戦後処理においては、会津藩が国替えや、悲惨な運命をたどるものの、庄内藩においては勇敢な戦いを評価した官軍の大将・西郷隆盛によって、寛大な処置がとられ、最小限のペナルティーですむこととなりました。義にあつい庄内の人々は、この処理に大いに感動し、のちに西南戦争で賊軍となる西郷さんへの恩義を忘れず、西南戦争が起こった際には九州に駆けつけ参戦する者、そしてその死後には、西郷さんの遺徳を後世に伝えるべく、「南洲公遺訓」を出版することとなりました。現在、のこる西郷さんの肉声の多くがこの書物からの出展です。

 

最強といわれた庄内藩は、本間家という最高の商人と、最高の人格をもった義にあつい人々が住んだ理想郷でした。

 

宗久が遺した世界初の「ローソク足チャート」

 

酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る

(江戸時代の狂歌)

 

ローソク足チャート(ローソクあしチャート)は、株価などの相場の値動きを時系列に沿って図表として表す手法の一つです。このチャートは本間宗久によって発明されたと言われおり、現在は日本国内だけでなく、世界中のヘッジファンドや個人投資家の間でもローソク足チャートを中心軸において取引をしています。

 

本間宗久は、本間家出身の商人で、1700年代、日本の米相場で長期にわたって勝ち続け、相場の神様とまで言われた人物です。34歳から4年間で資産を16倍に増やし、38歳に大阪に行っても、米相場で勝利を重ね、冒頭の狂歌のとおり、相場をよみきり多額の資産を得ました。

 

1724年出羽庄内(現在の山形県酒田市)に、本間久四郎光本の三男として生まれます。16歳の時吉宗将軍の時代の江戸へゆき見聞を得ます。帰省後酒田にて米相場での投機を父に進言するが「商いの正道ではない」と容れられませんでした。血気盛んな宗久は、酒田を出て、江戸で米相場の投機を行うが失敗し破産することとなります。失意の中で帰郷した宗久ですが、今度は当時江戸以上の大市場であった大坂で再チャレンジしたことで、相場の神様が誕生することとなるのです。

 

大坂の米相場では江戸の失敗を材料に才能を発揮し、大成功をおさめます。長い間対立していた本家の光丘とも和解がかないます。彼は酒田の米を売り本間家の勃興を側面から支え、その活躍ぶりは、『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』といった唄が流行るほどであったといわれています。

  

伝説の相場師・宗久の慧眼

 

旗が動いているのでもなく、風で動いているのでもない。旗を見ているお前達の心が動いているのだ!

(禅語からの引用/伝・宗久のことば)

 

旗とは価格そのもの。風とは需要と供給と考えれます。しかし、旗が動く理由はこのどれでもなく、「旗を見ているお前達の心が動いているのだ」と僧侶は言いました。つまり宗久は相場の価格を動かしているのは価格を見ている投資家たちの「心」だというのです。「投機」という人間の欲望が入り乱れる市場で、宗久は、人間の「心」を定量化し、見事相場を読み切りました。こうした「感情」を数値化するには数学の力が必要です。現代も高度な金融商品をつくりあげるために、最前線では数学のエキスパートが活躍しているそうです。日本は、世界初の先物取引の先進地であり、また市場を数値化し、相場を勝ちきる宗久を輩出した経済大国だったのです。

 

 

宗久が遺した家訓とは? 

 

欧米でチャートが生まれるはるか昔に編み出された「ローソク足チャート」酒田罫線法(酒田五法)は、チャートに見え隠れする投資家の心理状態を読んだ相場必勝法として知られています。しかし、宗久自身は、その子孫に、莫大な財産をきずく源となった相場に手を出さないよう強く言明しています。また、遺した財産についても、ひろく公のために使うことを指示しており、実際、江戸時代におこった飢饉の際にも、本間家の家中では飢餓者をださずに乗り切ったとの逸話がのこっています。投機というバブル世界で身をたてた宗久が、息子娘には、投機に手をださぬよう、そして地に足のついた商売を選ばせているのが印象的です。宗久は相場を読むだけでなく、相場の危うさを誰よりも知り、また稼いだお金の使い道についても、生き金になるよう家訓にその哲学をきざみました。

 

古今東西、一代で財をなす英傑は度々登場します。しかし、稼げる男たちが多くても、使える男は殆どいないのが現実です。宗久なきあと、同じ時代に切磋琢磨した三井、住友といった豪商が政治とつながり財閥化していったのと対照的に、本間家は、酒田での地域の発展にこだわりつづけのには、家訓の存在が強かったのではないでしょうか?残念ながら、平成の世となった現代では、記念館や、歴史の上でしか本間家の隆盛をしる術はありません。しかし、世界史的には、宗久の生み出したローソク足チャートを筆頭に、投機でえたお金を地域のために還元した歴史は誇らしいものです。

 

資本主義の原型をつくった経済学者のケインズは、自らの人生をゆとりある豊かなものにしたいと考え次のような言葉を残しています。

「投機には知性と英知が必要であり、結果的には社会の流動性を増し、変動を抑え、生産者には頼れる道標を提供するものであるから、社会的には利益なのである。」っと

江戸時代の「経済」に学ぶ

 

 

お金は社会の血液とたとえられます。お金の循環は人々の生活を豊かし人生にうるおいをもたらします。もちろんいきすぎた拝金主義には副作用も存在します。伝統的に儒教の影響が大きい朝鮮では、貨幣経済が進まず、近代まで、物々交換での経済が主でした。理想は正しくても、物々交換では、経済の発展は望めません。宗久の生きた江戸時代中期は、お金の循環がはじまり、日本型資本主義の原型がつくられた時代です。

 

「経済」とは、エコノミーの和訳で、その意味は「経世済民」(民を救う)という意味です。本間家や、住友家。そして、三越の祖、高井家などが登場し、おのおの才覚で、商いを大きくし、そしてその成長が社会に豊かさをもたらすこととなったのです。

 

世界初の先物市場の誕生

江戸時代、稲作は主管産業であり、また給料をお米(俸禄)でもらっていた武たちにとっては、お米=お金そのものでした。

しかし、お金のかわりっといっても、お米は1俵60kgもの重さがあり、実際、売り買いの度に現物をいどうさせることは合理的ではありません。当時、天下台所といわれた大坂では、全国の米の集積所として発展していくなかで、現物(お米)を証券化しバーチャルでの商いをはじめていくこととなったのです。

 

お米は、環境の変化で、毎年、豊作不作となることで、マーケットは大混乱します。当時を生きた商人たちは、自然の影響を相場をたてることでリスクヘッジすることを思い立ちます。現物での取引だったお米が、ついには世界初の先物取引の市場へと進化したのでした。

 

米相場の変動から身を守り、収益の機会を求めながら市場を高度に組織化していった徳川時代の米商人たちのたくましさと知恵は、今日の時代にも十分通じるものがあります。 今から300年も前に開設された先物取引ですが、日本では明治以降、米の先物は取り入れられておらず、つい20年前までは、食糧管理の名のもと、全量を政府が買い取る石器時代のような政策をとっていました。

 

世界最大の商品取引所であるシカゴ ・ボード ・オブ ・トレード(CBT)を訪れる日本人の見学者は、案内者に「大阪の米相場が我々の大先輩だ」とレクチャーされるのだそうで、日本人の商人の英知によって今日の隆盛を見たCBTは、日本に対して敬意を表すそうです

  

現代の米の市場は、半官半民、もしかしたら8:2という割合でお上が決めたいびつな市況のもとでお米の値段が決まっています。しかし今から300年前、宗久が活躍した大阪では米の先物取引が行われていました。おじいちゃん、おばあちゃんの畑を守るためには、手厚い保護よりも、こうした市場にゆだね、反対に市場からお金をぶんどるしたたかさが、もとめられるのではないでしょうか
温故知新。江戸時代のデイトレーダー本間宗久の慧眼に学ぶことがいっぱいあります。 相場の神様は、投機によって、商品の流通を手助けし、結果、日本に多大な利益をもたらした偉人中の偉人です。そして、利潤によって得られたお金を庄内平野に投資し、いまも広がるたくさんの良田を今に伝えています。良田とは、田畑だけにあらず、宗久たち江戸期の商人たちのバイタリティーこそが、今大事にしないといけない真実の「良田」です。

 

 

 

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■書籍概要

書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

出版社: セルバ出版

 価格 : 1,600円+税 

URL  http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063

 

     

 

 

 「本間さまには およびおせぬが せめてなりたや お殿様」

 誰よりもたくさん稼いで、たくさん使った、殿様以上の輝きをはなつ本間家の歴史に感服です^^

 

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コメント: 1
  • #1

    佐野正拡 (水曜日, 04 10月 2017 13:58)

    たいへん面白い話ありがとうございました。本間のゴルフクラブに誇りをもちました。