前田利家 家訓

 

 

利家が前田家に残した家訓

 「みずから天下人になるな、天下人は必ず滅ぼされる」

 

 

 

 

 

 

前田 利家(まえだ としいえ) 

生誕:天文7年(1538年)※1537、1539年説も

死没:慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)

 

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人 

 

加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧領(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高)で、飛び地の一種)だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を加える。

 

織田信長によって能登1国を与えられていた藩祖前田利家が、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に豊臣秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子利長に越中西三郡が与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された

 

利家が前田家に残した家訓

 

・古参者は、新参者より信用できない」

・さしでがましい者は取り立てず、控え目なる者を登用する

・みずから天下人になるな、天下人は必ず滅ぼされる

  

この利家家訓を守り、加賀前田家は百万石(高岡藩、大聖寺藩などの分家の領土を含めれば120万石を超える)

大名家として幕末まで存続し続けた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鼻毛で救った加賀百万石の未来

 

新幹線の開通で観光地として注目のあつまる金沢市。加賀百万石の城下町として栄えた歴史を受け継いだ街です。金沢には、北陸の小京都といわれる景色がひろがっています。これは、歴代の前田家のお殿様たちが、散財の限りを尽くした結果できた風景です。天下取りの野心を見せない証拠として、前田家では文化に莫大な金銀を消費してきました。いまものこる金箔や漆の工芸品は、こうした背景がのこした遺産でもあります。

 

戦国のハムレット

前田利家は、尾張の小城主の息子で、14歳の時から織田信長に仕え、槍の名手として知られた武将です。信長なき後、織田家の跡目をめぐって、戦がはじまります。ここで利家は、恩人であった柴田勝家に仕えるものの、攻める秀吉は、古い友人です。恩人か友人か、悩みに悩む利家は、結局秀吉に仕えることに決め、以後、秀吉の天下取りをたすけ加賀百万石の大大名に出世していきます。

 

【ハムレット】とは、シェークスピアの代表作で、亡き父の亡霊から復讐してくれと頼まれた、息子のハムレット王子が、迷ったり悩んだりしながら、ようやく復讐できた・・・と思ったら自分も死んでいたっという悲劇の物語です。利家が本当の意味で、悩みに悩むのは、最晩年のことです。

 

関ヶ原の戦いと前田家

1597年、秀吉が死去。利家は、幼い豊臣秀頼の後継人に指名されており、勢力を増す徳川家康と対峙していきます。しかし1599年、利家が死去すると、家康はその死を待っていたかのように翌年、関ヶ原の戦いを仕掛けることとになったのです。この後、加賀前田家は、政治的には目立った動きもなく、天下分け目の関ヶ原の戦いに突入することになりました。結局、前田家は、東西両軍に参戦しないことで、間接的に家康をサポート、合戦の戦後処理では、一部の改易はあったものの加賀・越中・能登の120万石を徳川家康により安堵されました。豊臣政権下の重臣「五大老」の中で関が原合戦後に、滅亡・減封・転封とならず、旧領をそのまま安堵されたのは前田家だけでした。

 

加賀藩第三代藩主の前田利常「鼻毛の殿様」

たえず監視の目をゆるめない徳川幕府。前田家では、歴代の藩主たちは、利家から託された「天下人にならない」との家訓を守っていきます。なかでも第三代藩主・利常は、長さ一寸(3㎝)のボーボーの鼻毛をのばし、周囲に「アホ」と呼ばれた迷君!? 否、名君として有名です。金沢100万石の大大名も、鼻毛が伸び放題では、権威もカケラもありません。しかしそこには、常利の思惑がありました。聡明さをひきらかし謀反の疑いをかけられるぐらいなら、命を賭けてアホを演じる道を選んだのです。利常の言葉として次のような言葉が伝わっています

 

「そなたたちが、私の鼻毛が伸びたのを心苦しく思い、また世間でも鼻毛の伸びたうつけ者と嘲笑っているのは重々承知しておる。しかし、利口さを下手に鼻の先にあらわしてしまえば、他人は警戒して、思わぬ疑いや難儀を受けるともかぎらない。こうやって馬鹿のフリをしているからこそ、加賀、能登、越中の三カ国を保ち、領民ともども楽しく過ごせるのではないか。」

 

明治維新と加賀藩

加賀藩は外様大名の中でトップクラスで御三家とほぼ同等の対応を保証されていました。しかし、幕末には、官軍に恭順して北越戦争に参加することになります。名門であった加賀藩は、莫大な物資・武器の提供をしたが、この物資武器が関が原当時の時代遅れのトホホ。。。なものでした。最新式の銃をもつ官軍に、戦国時代から伝わる火縄銃を差し入れます。すぐに官軍の笑い者と言われています。しかも戦わせたら、存外に弱い(>_<)、官軍からも加賀兵は前線から後方支援に回れと足手まといの扱いされたと言われています。 官軍から貸してもらった洋式銃で肩を脱臼する加賀兵が続出したとまでいわれる体たらくでした。歴史学者は、加賀藩の前田家や、仙台藩の伊達家は、明治維新で目立った活躍もなく、旧体制から脱却できずに役割を終えたと記しています。しかし、家訓を守り、バカに徹し、結果明治維新後も、一族は華族として家名を保っている点をみれば、違った感想がわいてきます。

 

名刀は鞘の中

「刀は鞘に納まってこそ名刀」とは、関ヶ原の戦いで断絶した長宗我部氏の家訓とされる言葉です。名刀は抜きたくなるもの、同じように権力や武力も、使ってみたい誘惑があるもの、笑われて、時には殿さま自らが鼻毛を伸ばしてまで、名刀を隠し続けた前田家こそが、戦国の世の一番の勝者だったのかもしれません。

 

名門の意地

豊臣家の五大老のひとり宇喜多秀家は、関ケ原の合戦で西軍に味方し、八丈島に流罪となります。実は秀家は、前田利家の娘・豪姫の嫁ぎ先でした。八丈島に流されてから、秀家は一度も妻の豪姫に会う事はありませんでしたが、前田家は秀家を見捨てず2年に1度、金銀や米70俵、衣服、生活雑貨、医薬品などを、八丈島に送ります。

 

この仕送りは、宇喜多秀家が亡くなった後も、彼の子孫へ宛てて、江戸時代が終わるまで続けられたのです。明治時代になると、宇喜多秀家の子孫たちは、前田家の援助で本州へ帰還しました。一歩間違えれば、徳川への反逆にも、とられかねない敗軍の将への気遣い。律儀者として有名だった前田利家の遺伝子は、代々の前田家の当主たちに引き継がれていくのでした。

 

 

 

 

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著者 : 幡谷哲太郎 

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出版社: セルバ出版 価格 : 1,600円+税  

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