徳川慶喜と水戸家の家訓

  

『徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ』

水戸藩の家訓

 

 

徳川慶喜とは

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生し、以後、一橋家に養子にだされたあと、慶喜30歳の時に、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 ‐ 1868年)に任じられる。江戸幕府最後の将軍であり、また水戸徳川家にとっても、最初にして最後の将軍となりました。

 

ちなみに、水戸徳川家は、家康十男・徳川頼房を初代として始まります。一般に御三家といわれ、尾張、紀州と共に、将軍家を補佐する役目として設置されました。一説には、水戸徳川家は、神君家康より密命が家訓として託されていたとも言われています。その家訓とは

 

 「水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである」

 (常磐神社HPより   http://www.komonsan.jp/kura/post_57.html

 

混迷をふかめた幕末にあって。将軍家の最後の切り札として登場した慶喜。しかし、家訓のとおり、朝廷に行政権を委譲する大政奉還を成功させ、また戊辰戦争においても、朝廷に弓をひくことなく、指揮権を放棄し、官軍(朝廷)の勝利を決定づけています。

 

一般には、弱腰と批判される慶喜でしたが、その秀でた能力は、新政府の桂小五郎をして、「神君家康の再来っ!」っと恐れられていました。家康をのぞき、歴代将軍の中で、これだけドラマティックに、そして確固たる業績を残した政治家はいないのではないでしょうか?政治の面では、身分に関係なく優秀な人材を登用しています。そのなかのひとりが勝海舟であり、また資本主義の父と言われた渋沢栄一も、一橋家に仕えていました。

 

政権を朝廷に返上した大政奉還の実現の際には、弁舌はげしく、多くの諸公、公家たちを相手に孤軍奮闘した記録が残されています。殖産興業の面でも、慶喜がつくらせた横須賀にのこる舟を建造するドック等は、明治から大正、昭和と、多くの舟の建造をし日本の豊かさを支えました。また、意外なところでは、石川島播磨重工業も、慶喜公由来の会社です。

 

これだけ優秀な慶喜が、戦わずして負けたことに、あなたは疑問を感じませんか? そもそも、慶喜の世界史以上稀な、見事な敗戦がなくして、明治維新も、日本の繁栄もなかったことをあなたは御存知でしょうか? 規格外の怪物 慶喜を語るため、今回のブログでは、日本の枠をこえ世界情勢から語らなくていけません^^

   

世界史の中の日本

日本は、2000年以上の歴史を誇る世界一古い国です。しかし悠久の歴史のなかでは、独立を脅かされた危機が何度もありました。まずは、13世紀の元寇。当時、世界一の大国であった元の襲来を、鎌倉時代の武士たちは見事阻止しました。そして大東亜戦争終結時、国体の護持が脅かされたものの、先人の奮闘もあり、初代神武天皇から続く、日本の歴史は、絶えることなく今に続いています。

 

実は、もう1つ、日本の歴史が途絶える危機があったことをご存知でしょうか?

それが、明治維新の前夜の物語です。

 

「曲突徙薪(きょくとつししん)」という四字熟語があります。ざっくり説明すると、火事を鎮火したヒーローは記憶されるが、真にほめたたえられる正義は、火事をおこさない人であるべきだという意味です。

 

火事をおこさなかったヒーロー、それが今回のブログで紹介する徳川慶喜公です。慶喜公の功績は、戊辰戦争に見事に負け、結果、西欧列強の植民地化をしりぞけた功績です。当時の世界情勢は、西欧列強と言われた白人様による植民地政策の最盛期の時代です。世界の国々の独立が奪われ、アジアで独立を保ったのは、195余国のなかで、タイと日本だけという状況でした

 

白人による植民地政策は、狡猾で、また心理をついたものです。まず宣教師をおくりキリスト教を布教させます。この点では、秀吉、家康による布教禁止のおかげで先兵のおくりこまれる危機を脱していたのは幸運でした。次に行う戦術は、内戦です。つまり国内の勢力同士を戦わせ弱体化させるのです。植民地化の際、目立った戦もないままなし崩し的に併合されていったのは、この内戦による疲労をまっていたからです。白人様は、とにかくずるい(*_*)

 

しかし、日本の場合、イギリス、フランス、ロシアにアメリカ。各国が入り乱れ各勢力に分かれ内戦になるのを待っていたのに、慶喜公の見事な退却と、徹底した新政府側への恭順の姿勢のすえ、新政府側、徳川側消耗することなく政権が引き渡されました。世界中の180国が植民地にされた時代に、日本だけは懸命なかじ取りで、その危機を脱しています。そのかじ取りを担い見事な負け戦で国を救ったというのが慶喜の功績です。

 

   

 世界史の奇跡「大政奉還」

 

薩摩と長州に討幕の密勅(後述)が下った慶応3(1867)年10月13日、まさにその日、将軍の慶喜は「政権を朝廷にお返しする」と発表しました。この歴史的な決断を待っていたのが、大政奉還を後藤象二郎(土佐藩重役)に提言した坂本龍馬です。

 

薩長の内情を知る龍馬は、幕府が政権を奉還しなければ、薩長と幕府の日本を二分する流血の戦いが勃発することを恐れていたと言われています。そのため龍馬は、将軍が大政を朝廷に返したことを知るや、体をよじりながら、「これで戦争は起こらぬ。将軍のお心はいかばかりかと察するに余りある。よく決断なされた。私は誓って、この将軍のために一命を捧げん」と感涙しました。

 

「幕府」とは、元々、軍の遠征の際、本陣を囲むように貼る「幕」のことを指し、天皇から任じられた将軍が、幕の中で、一定の権力をゆだねられ政治を司るものです。本来、限定的な政治形式でしたが、鎌倉幕府以降、臨時の政治体制が既成化し、以後、鎌倉、室町、江戸っと、600年に渡って武士の時代が続きます。慶喜が返上した「大政奉還」は、この権力構造を朝廷にお返ししたものです

 

そもそも、権力者が自ら政権を返上する姿をみたことがありますか?21世紀の政治状況はもちろん、古今東西、そんな政治家は見たことがありません。だいたいのリーダーは、権力にしがみつき、わるあがきの末、戦争をしたり国民を圧迫したりというのが関の山ではないでしょうか?

 

翌日の14日、将軍慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出。慶応3(1867)年10月14日は、日本の歴史で記念すべき日となるはずでした。龍馬をはじめ、当時を生きた人にとっては、「大政奉還」こそが「新国家」樹立に向けて出発の日と信じていたはずです。しかし目的達成のためには、手段を選ばない薩長の勢力は、大政奉還という偉業をなし崩しにしていくのでした。つづいて慶喜たちは、建白書を提出。新しい国の枠組みを示します。

  

この案が実現していれば、慶喜を中心に全国の有力諸侯が参加した連合政権となっていたことが予想できます。日本中の実力者たちが参加した“オールスター”ともいうべき新政府は、薩長藩閥に牛耳られた明治政府より優れた政体になっていたとの指摘があるほどです。

 

この「慶応維新」に困ったのが、薩摩と長州である。討幕が勅許され、「我らは朝廷軍で、幕府は朝敵だ」と意気込んだが、慶喜が政権を返したので、振り上げた拳をどう下ろしたらよいかわからない。そもそも、大政奉還の前日の13日に出された「討幕の密勅」は偽造されたものであり、そのことは文章に明らかに示されている。その原本には、天皇の署名となる名前の「睦仁」という直筆はなく、天皇の認めた印の「可」の文字もなく、名を連ねた3人の公家の花押もない。文章も居丈高で威圧に満ちて、慶喜を糾弾し、誅殺せよと品位もなく叫んでいるだけなのでした。

 

 

鳥羽伏見の戦い

「大政奉還」という大英断の結果、倒幕勢力は、徳川幕府軍を倒す理由を失い争う必要がなくなるはずでした。しかし、あくまで武力での倒幕にこだわる新政府軍(薩長)は、慶喜を許さず、「戊辰戦争」をひきおこし、そして明治新政府を樹立することになります。

 

1868年、京都の南で会津藩・桑名藩を中心とした旧幕府軍と薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍が交戦しました。これが「鳥羽伏見の戦い」です。この戦いに敗北したことで、264年続いた江戸幕府は崩壊へと転がり落ちます。しかし、なぜ戦力に勝る幕府軍は敗北してしまったのでしょうか。多くの歴史家が指摘するのが、敗戦の原因を慶喜の行動にもとめるものです。

 

1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いは、5日になると敗報が届くようになり、6日には敗残部隊が続々と大坂城に退却してくるようになりました。こうした中、慶喜はこれらの軍勢を見捨て、一部の側近を引き連れて江戸へと帰ってしまったのです。戦いにおける敗因として、慶喜の行動が最大の原因であることは間違いないでしょう。そして、腰ぬけ将軍と未だに嘲笑の対象にさえなっています。神君家康の生まれ変わりとして、鬼神のごとく辣腕をふるった慶喜。一方、鳥羽伏見の戦いでは味方を残し敵前逃亡したのも慶喜。違いすぎる2つの決断にはどんな背景があったのでしょう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥羽伏見の戦いと偽りの「御旗」

 

「大政奉還」という大英断の結果、倒幕勢力は、徳川幕府軍を倒す理由を失い争う必要がなくなるはずでした。しかし、あくまで武力での倒幕にこだわる新政府軍(薩長)は、慶喜を許さず、「戊辰戦争」をひきおこし、そして明治新政府を樹立することになります。

 

鳥羽伏見の戦い

1868年、京都の南で会津藩・桑名藩を中心とした旧幕府軍と薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍が交戦しました。これが「鳥羽伏見の戦い」です。この戦いに敗北したことで、264年続いた江戸幕府は崩壊へと転がり落ちます。しかし、なぜ戦力に勝る幕府軍は敗北してしまったのでしょうか。多くの歴史家が指摘するのが、敗戦の原因を慶喜の行動にもとめるものです。

 

1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いは、5日になると敗報が届くようになり、6日には敗残部隊が続々と大坂城に退却してくるようになりました。こうした中、慶喜はこれらの軍勢を見捨て、一部の側近を引き連れて江戸へと帰ってしまったのです。戦いにおける敗因として、慶喜の行動が最大の原因であることは間違いないでしょう。そして、腰ぬけ将軍と未だに嘲笑の対象にさえなっています。神君家康の生まれ変わりとして、鬼神のごとく辣腕をふるった慶喜。一方、鳥羽伏見の戦いでは味方を残し敵前逃亡したのも慶喜。違いすぎる2つの決断にはどんな背景があったのでしょう

 

戦場に登場した「錦の御旗」

鳥羽伏見の戦いで慶喜を驚かせたのは「錦の御旗」の登場でした。数百年も使われておらず、誰も見たことのない旗ではあったものの、錦に刺繍された菊紋は間違いなく天皇のものであることは慶喜にもはっきりとわかったはずです。朝廷に上表して薩摩と戦っているはずなのに、なぜかその朝廷が薩摩の味方となっている・・・このことは、大政奉還後もそれなりの勢力を保ちながら政治の中心に立とうとする慶喜に、大きな動揺を与えました。「錦の御旗」に弓をひくことは、すなわち朝廷に弓をひくことを意味します。ここで慶喜は、水戸藩の家訓である「徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」に従うことを選択したのでした。

 

この決断の結果、慶喜は、腰抜け将軍という汚名をおびることとなったのです。戦争にはルールがあってないようなものです。孫子曰く、「兵とは詭道なり」。正攻法などで戦うのではなく、いかに相手を策略で陥れるかが戦術と言うものです。戦争の本質は騙しあいです。しかし、何でもありといっても、やっていいことと悪いことはあります。畏れ多くも天皇さまの名を語り「錦の御旗」を振りかざした薩長の兵隊たち。「勝てば官軍」という慣用句のとおり、まさに何でもアリの倒幕となりました。

 

水戸家の「家訓」と徳川慶喜

自身も幕臣として一橋家(慶喜)に仕えた明治の事業家渋沢英一の回顧録にはこんな記述が残っています

 

伊藤博文と徳川慶喜の会話です。

(伊藤)「一昨夜、有栖川宮家で、スペインの王族の方を迎えて晩餐会があり、慶喜公も私も相客に招かれ、宴会が終わってお客が帰られた後、私は慶喜公に「維新のはじめに貴方が尊王というものを大事に考えられたのは、どのような動機からですか?」

 

とたずねたところ、 慶喜公は迷惑そうに

(慶喜)「自分はただ昔からの家の教えを守ったに過ぎません。ご承知のように水戸は義公の時代から皇室を尊ぶということをすべての基準にしてまいりました。私の父、斉昭も同様の志しを貫いておりまして、これから後、朝廷と徳川本家との間で争いが起きて、戦争でもするような大変なことにもならないとも限らないが、そのような場合には、水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである。もしもの時のためにお前に言っておく。

 

と教えられてきました。しかし、幼いときは、それほど大事な事とは考えていませんでしたが、二十歳と成ったとき、父、斉昭は姿勢を正して、

「現在は黒船が来たりして大変な時代に成っている。この後、世の中はどのように変わって行くか分からない、お前も二十歳になったのであるから、先祖から代々教え継がれて来た水戸家の家訓を忘れるではないぞ」

と言われました。この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまででございます」

 

  

家訓という悠久の価値観 

戦いは、切った張ったの世界である一方、なにをもって勝利とするか?は大変難しいジャッジが必要です。1つ言えるのは、戦いのなかで、「大局観」をもてる人材が真の英雄だということです。

 

大局観をもてない歴史家たちは、慶喜の選択を、弱腰とも批判します。また徳川側に十分な戦力が整っていなかった?というのも間違いで、鳥羽伏見の戦いの時点では、西欧式の軍隊も導入し、最新式の大砲をそなえた軍艦まで所有し、新政府と徳川側の戦力差はなかったものと言われています。

 

しかし、慶喜は戦わなかった。そのことで、生涯、弱腰といわれ、そしていまなお、慶喜を批判する人。あるいは、無能の将軍との辱めをうけています。しかし、慶喜は悠久の日本の歴史のなかで、負けて勝ったのです。つまり内戦に突入しなかったことで、西欧列強からの干渉を抑えこみました。

 

戦争という火事場で散るばかりでなく、名をすて、己を殺し、慶喜は270年の幕府の時代をひとり幕をおろしました。

徳川家は負け日本が勝った。それ以上の勝利があるのでしょうか火を消すばかりが英雄でなく、火事を起こさない英雄、それが慶喜公の賢明さです。

 

戦の中で、どう負けるか?が一番難しい判断です。秀吉は負け戦のしんがり(退却時の最後の一団)をつとめ、信長の信頼を勝ち取り、百姓の身分から、天下取りをする足がかりを築きました。同じように、慶喜は激動の時代のしんがりをつとめ、今に続く日本の繁栄をもたらしました。

 

しかし、今から約70年前、日本は大東亜戦争を戦いアメリカを中心にした連合国側に、粉々に打ち負かされています・・・

この時、秀吉、慶喜のように、敗け戦を上手にたたむ「将」がいたのなら、歴史は変わっています。事実、多くの悲劇をもたらした戦争の中で、戦傷者の9割は、終戦をむかえる1年の間の悲劇です。つまり1年、早く終戦をむかえていれば、尊い人命の9割は助かったのです。戦局をみれば、サイパン島の陥落後、本土への爆撃が可能になった時点で、日本の勝利はなくなっていました。

 

大東亜戦争の悲劇は、サンパン陥落後の日本に、負け戦を演じる「慶喜」がいなかったことです。そして、幕末の日本には「慶喜が」いました。

 

そんな慶喜を育てたものが、水戸徳川家の家訓と、藩校・弘道館。そして水戸の風土であると家訓ニストは断言します。そして、偽勅をあやつる新政府軍より、皇室への尊崇の念も高かったことは、歴史が証明しています。

 

勝者によって歴史がつくられる。しかしそろそろ、慶喜公、斉昭公の名誉回復と、その偉大な功績を議論すべき時がきているのではないでしょうか?

 

歴史は勝者によって作られるもの。 通説とされる教科書に載っている「歴史」は、勝者によってねつ造された都合のいい歴史です。「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

 

最後に慶喜と天皇家にまつわるエピソードを1つ紹介させていただきます。

 

維新後の慶喜と明治天皇

徳川家の切り札として登場した慶喜。しかしわずか1年で将軍職を返上したあとは、官軍の監視下のもと、静岡の地で、数十年におよぶ恭順の日々をすごします。

 

明治時代になると天皇さまは、東京遷都後のはじめての花見の機会を水戸徳川家の藩邸でお楽しみになるなど、積極的に水戸藩、そして慶喜と交流をはじめます。明治35年には、慶喜に最も高い公爵の位を叙され名誉を回復、30年ぶりに東京に戻ることを許されます。

 

プライベートでも、慶喜と皇太子(後の大正天皇)と一緒に狩猟に出かけるなど、親睦を重ね、皇太子は慶喜を「ケイキさん」と呼び、慶喜は皇太子を「殿下」を呼ぶ仲となりました。のちに高松宮宣仁親王(昭和天皇の三弟)と、徳川喜久子(慶喜の孫)はご成婚され、その関係は更に特別なものになりました。結局、慶喜は77歳で死去するが、それはなんと、明治の世が終わった大正二年(1913)のこと、慶喜は歴代将軍のなかで最も在任期間が短いが、一番の長生きとなりました。

 

官軍によって、無理やり「朝敵」(朝廷の敵)にされた慶喜。しかし事実だけを丁寧に読み解けば、明治天皇は、慶喜を慕っていたことがわかります。明治天皇は、本当の「尊皇」と、偽物の「尊皇」を本能的に悟っていたのかもしれません。

 

 「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

そして、「正義」の人、慶喜は正義よりも、尊い「大義」に生きた人生だったのかもしれません。30歳で就任した将軍職をわずか1年間で瓦解させ270年の徳川政権を店じまい。そして残りの44年間を晴耕雨読の日々で過ごした人生は、見事としか言いようがありません! 

  

温故知新。古きを訪ねて新しきをしる。あなたは、このブログで何を感じたでしょうか?そして、あなたは誰に、何を残し、何を渡しますか? 歴史の裏に人があり。年号や暗記クイズに陥った現代の日本史には人がいません。

 

名をすて、国をまもった慶喜公の見事な負けっぷりを、水戸人として誇りに感じます^^

 

 

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著者 : 幡谷哲太郎

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コメント: 3
  • #1

    yasu (火曜日, 26 9月 2017 15:54)

    素晴らしい。

    大政奉還後は、水戸に戻っていたのですか?

  • #2

    家訓二スト (火曜日, 26 9月 2017 16:57)

    YASUさん、メッセージありがとうございます。
    慶喜公のその後の足取りは、大政奉還後は、引き続き京都にて政局にあたり、つづいて戊辰戦争時には、大阪城→江戸城と転戦しながら、江戸城無血開城の際には、水戸にうつり、弘道館で蟄居されています。
    その後、明治元年に静岡にうつられ、以後30年にわたり、軟禁生活をされることとなりました。軟禁といっても、領内の移動は認められており、自転車にのったり、猟に出たりと、第二の人生をエンジョイされていたそうです。

  • #3

    名無し (月曜日, 02 9月 2019)

    目先の勝ちにこだわらず大局を見て行動した慶喜氏、シビれます。

    私が読んでいる日本史の教科書には「旧幕府は新政府軍に負け、慶喜は江戸に逃げた」と簡潔にしか書かれていませんので、御ブログで彼の本質に触れられて良かったです。