北条早雲 家訓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北条 早雲(ほうじょう そううん)

 

生誕:永享4年(1432年)又は康正2年(1456年)

死没:永正16年8月15日(1519年9月8日)

 

室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある

 

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である

 

早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されている。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となった。

 

早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。

 

 

 

■早雲寺殿廿一箇条(北条早雲の家訓)

  

一、第一に神仏を信じ奉るべきこと。

 

一、朝はつねに早く起きるように心がけねばならぬ。遅く起きるならば、召使っている者までが気持ちをゆるめてしまって、公務の大切な用事にも事欠くようになる。その結果は必ず主君からも見離されてしまうものと思って、深く慎まなくてはならぬ。

 

一、夕刻は五ツ(午後八時)までに寝しずまるようにするがよい。夜盗は必ず子丑(夜半の十二時から二時まで)の時刻に忍び入るものである。宵の口に無用の雑談を長くして、子丑の頃になつてぐっすり寝入っていると、夜盗にも忍び込まれて、家財を盗まれる結果となる。このような事は、損亡のみにとどまらず、外聞も非常に悪いものであるから、とくに注意しなくてはならぬ。宵には燃え残りの薪や、その他の火をよく片づけておいて、夜は早く寝て、朝は寅(午前四時)の刻に起き、行水をし、神仏への礼拝をなして、身のまわりを正しく整え、その日の用事を妻子や家来の者どもに申し付けて、それから出仕するのであるが、それは六ツ(六時)までにしなくてはならない。古語に、「子(十二時)の刻に寝て寅の刻には起きよ」と言っているけれども、そのようなことは、人によって当てはまるのである。つねに寅の刻に起きるのがよろしく、辰巳(八時から十時まで)の刻までも寝ていたのでは、主人への出仕も叶わず、御奉公にも事欠くことになるのみならず、また、自分の用事をもすることができず、全くつまらない次第であって、毎日暮らしているのも無駄なことである。

 

一、朝起きたならば、手水をつかわない前に、厠(かわや)から厩(うまや)、それから庭から門の外までよく見廻って、まず最初に掃除する箇所を適当な者に言いつけ、それから手水を早く使い終わるがよい。水を使うに際しても、たくさんにあるものだからといって、むやみやたらにうがいなどして捨ててしまってはならぬ。また、家の中だからと言って、あまり高い声を上げながら手水を使ったりするのは、他の者に無遠慮なしぐさであって、非常に聞きにくいものであるから、静かにしなくてはならぬ。昔の言葉にも、「天高けれども背をまげて立ち、地厚けれどもぬき足で歩く」というのが遺っている。

 

一、神仏を礼拝することは、身の行ないというものである。神仏に対して拝む気持ちがあるならば、ただひたすらに心を正しくおだやかに持ち、正直一途に暮らし、上なる人を敬い、下なる者を燐み、つつみかくしなく、有るをば有るとし、無きをば無いとして、ありのままの心持ちで生活することが、天意にも仏意にも叶うというものである。このような心持ちでいるならば、たとい祈らなくとも神明の御加護はあるものであり、たとい祈ったとしても、心が曲がっていたならば天道からも見はなされるものであることを、肝に銘じて、深く慎まなくてはならないのである。

 

一、刀や衣装は他人のように、ことに立派なのをつけようとしてはならぬ。見苦しくない程度で満足し、決して華美に流れるようなことがあってはならぬ。若しそれを無い物まで他人から借り求めたりなどして、無力な奴だと思われるようになったならば、世間の人から嘲笑を買うばかりである。

 

一、主人の所へ御出仕申し上げる時はむろんのことであるが、その他の場合、或いは少々の用事があって今日は出仕せず宿所にいるのだがと思っても、とにかく髪を早く結わなくてはならぬ。ふしだらな格好をして人の面前へ出ることは、不作法で嗜みのない態度といわなくてはならない。もしもそのように、わが身に油断がちであるならば、使用している召使いの者までがすぐにそれを見習って、他家の人たちが訪問してきた場合など、一家中でうろたえ騒いで、非常に見苦しいものである。

 

一、出仕する場合は、殿の御前へ参って直ぐに伺候するようなことをしてはならぬ。そのような時は、御次ぎの間にいて、同輩の人たちの様子を見て己れの身なりをも正し、そうしてから初めてお目通りへまかりでるようにするのがよい。もしこのような注意を怠ると、思わぬ落ち度をすることがあるのである。

 

一、殿が何かのことを仰せになるような事があったならば、遠く離れて伺候していても、直ちにまず「はっ」と言って御返事を申し上げて、頭を低く下げて御前へ参り、はうようにしながら御側近く寄り、全く心から謹み畏んで承らなくてはならぬ。そうして御用向きを承った場合は、急いで御前を退出して、その由を申し調べた上に、御返答はありのままに申し上げるようにせねばならぬのである。このような時の注意としては、自己の才能のある点をほのめかして申しのべたりしてはならぬ。事柄によって自分一人では計りかねるような御返事は、分別ある人に相談した上で申し1げるようにするがよい。どこまでも自己というものを念頭に置いてはならぬ。

 

一、殿の御目通りの場所にいて談話などをするような人の近くにいてはならぬ。それから離れているがよいのである。まして自分から雑談をしたり笑ったりしていたのでは、目上の方からは申すまでもなく、同輩の連中からも、心ある人には見限られてしまうこととなる。

 

一、「多人数の者と交わっては、差出がましくして事を起こすようなことがあってはならぬ」という言葉があるが、何事もしなくてよいことは、他人にまかせばよいのである。

 

一、わずかの時間でもひまがあるならば、何かの本で文字の書き記されているのを懐中に入れておいて、人目を遠慮しながら読めばよいのである。文字というものは、寝ても覚めてもつねに手なれるようにせねば、すぐに忘れてしまうものだからである。読むだけでなく、書く点においては、なおさらのことである。

 

一、高官職の方々が御縁に並んで伺候されている時は、腰を少々曲げて手を前へ差し出して通らなくてはならぬ。少しも遠慮する気配を表わさないで、あたりに足音を響かせながら通ることは、もってのほかの無作法きわまりない仕ぐさと言わねばならぬ。また、その他の諸侍に対しても無作法な振舞があってはならず、いずれに対してもつねに慇懃にすべきである。

 

一、上下万民すべての人々に対して、言半句たりともうそをいうようなことがあってはならぬ。いかなる場合でも、ありのままに申しのべることが大切である。うそをいっていると、それが習慣となって、ついには信用をも失ってしまい、物笑いの種となるのである。己れがいった言葉について信が置けず、他人から聞きただされるようになっては、一生の恥と考えて、かりそめにもうそはいわぬように心掛けなくてはならぬ。

 

一、歌道について少しの嗜みもない人は、賤しい人と言っても仕方のない連中である。それゆえ、歌道は大いに心がけて学ぶべきである。また、言語についてもつねに慎んでいなくてはならぬ。一言聞かれても、その人の心は他に知られるものだから、注意せねばならぬ。

 

一、御奉公申し上げるひまひまには、乗馬の練習をするがよい。乗り歩く基礎を十分練習して、手綱のさばき具合や、その他の妙技について、稽古を積んで習得すべきである。

 

一、友を選ぶ場合、良友として求むべきは、手習いや学問の友である。悪友として除くべきは、碁・将棋・笛・尺八などの遊び友だちである。これらの遊びは、知らぬといって決して恥にはならぬものであり、また、たとい習ったからといっても悪事とまでは呼はれぬものである。これは、他になす事のない連中が、空しい時間をいかにしてすごそうかと考えて行なうものといえよう。人の行ないの善悪などというものは、皆その友人によるといっても過言ではない。昔から「人が二人集まれば、その中に何かの点でわが手本とする者がいる。すなわち、善い行ないをする者には自己もこれに見習い、悪い点をもっている者には従わぬようにする」というような言葉も遺っているのである。

 

一、その日の出仕も終わってわが家へ帰ってきたならば、厩のあたりから家の裏のほうまでも廻って見て、壁や垣根や犬の通った所などに穴が空いている箇所があったならば、そこを修理してふさぐようにさせなくてはならぬ。下男下女などというような者は、軒を焼いたりするようなことがあっても、ちょっとその場をつくろっておいて、後はどうなってもかまわないものである。それゆえ、小さい穴の空いたのなどに対しても、万事行きとどいた注意を怠ってはならぬ。

 

一、夕方になったならば、六ツ時(午後六時)には門をぴったりと閉ざしてしまって、人が出入りをする場合だけ開くようにさせるがよい。そのようにさせなくては、やがては必ず何かの悪事がひき起こってくるものである。

 

一、夕刻には、台所や茶の間その他の火の置いてある場所を自分で見廻って、火の用心を家人に対してかたく申し付けておかなくてはならぬ。また、よそから火が出た場合、類火にならぬようにつねに注意して警戒することを毎夜のように申し付けて、習慣にさせなくてはならぬ。女房というものは、いかように育ってきたものであっても、そのような注意は少しもなくて、家財道具や衣裳などを取り散らかして油断しがちなものである。たといたくさんの者を召使っていても、すべての事柄をそれらの人に申し付けるのが当り前だと考えないで、自分自身でまず万事をやってみて、十分にようすを知り抜いた上で、それから人にやらせてもよいものである、と考えなくてはならぬ。

  

一、文武弓馬の事については、武士たる以上、つねの道であるから、とくに書き記すまでもない次第である。文を左にし武を右にするのは、古から伝わっている武士の道であって、文武はともに兼ねそなえなくてはならぬものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■その後の北条家の隆盛と悲運

 

北条早雲の後、相模国(神奈川県)小田原を本拠(小田原城)にして、2代氏綱、3代氏康、4代氏政、5代氏直と続き、4代氏政・5代氏直(家督)まで順調に領地を拡大。しかし天下統一をめざす豊臣秀吉に滅ぼされて滅亡するのでした。

 

とくに4代・北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹しています。

 

なお氏政の最盛期はおよそ250万石です。宿敵の武田家、上杉家も最大で130万石そこそこですから、とてつもない版図だったことが分かります。

 

滅亡したとはいえ、北条家がのちの世に与えた影響ははかりしれず、戦国武将の先駆けとして広大な領土を制圧した早雲はまた、領国経営においても大変先進的な取り組みをしています。

 

まず、当時五公五民(収穫の五割を納める)が当たり前だった年貢を四公六民に引き下げる一方、検地を初めて行い公平な税負担を確立しました。また、後の織田信長で有名な楽市楽座も早雲が始めた商業振興策です。『早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)』という家法を定めましたが、これは各地の分国法の原型になりました。

 

これらの時代の最先端を行く政策の数々は、中央の高級官僚として経験を積んできた早雲ならではのものでした。民を大切にする彼の政治を他国の農民が羨んで、「自分のところも早く早雲殿の国になればいいのに」と言い合ったそうです。

 

 室町幕府が力を失うと、各地の道路の維持は割拠する戦国武将たちに委ねられます。領国の繁栄が自分の勢力拡大に繋がると気づいた一部の有力大名は橋を架けて道を修理し交通網の整備に努めましたが、弱小大名は荒れた道路や朽ちた橋をむしろ外敵への防備になると考え放置していました。一般の旅人にとって戦国時代ほど交通が不便で危険だった時代はないかも知れません。

 

 そんな時代にあって、北条氏の本城として栄えた小田原城下には楽市楽座のおかげで沢山の人や物が流れ込み、産業や文化が大いに発展しました。早雲の跡を継いだ二代北条氏綱(うじつな)は父の遺した領国をさらに拡大する一方、交通の整備に着手します。すでに主要な道路には市や宿が出来、宿場から宿場へと馬で人や荷物を運ぶ伝馬(てんま)の仕組みが整いつつありましたが、北条氏綱はこれを伝馬制度として確立しました。幹線道路に面する町村を伝馬宿として編成し、伝馬役を義務付ける一方、氏綱の印である虎の朱印状の手形を持たないものは勝手に伝馬を仕立ててはならないとします。手形は後に虎朱印状から馬の姿を刻した伝馬専用手形になりましたが、何事も書き付けで済まされることが多かった時代に印を用いた公文書で偽造を防いだこともまた、北条氏の先見性のあらわれでしょう。

 

 戦国大名の先駆者として歴史を駆け抜けていった早雲と二代氏綱。北条氏の政策は時代のはるか先を行く先進的且つ画期的なものでした。楽市楽座を取り入れた織田信長や、天下人として検地を実施した豊臣秀吉は、早雲の曾孫の北条氏政(うじまさ)と同世代なのです。

 

 条氏が覇を唱えた関東の地には小田原城や多くの神社仏閣、また彼らが保護して育てた小田原漆器など有形無形の遺産が、今も数多く残っています。北条氏の伝馬制度もまた、江戸幕府に受け継がれ、宿場制度として発展していったのでした

 

 

■秀吉の小田原ぜめ

 

 氏政という人物は、父親が北条五代の中でも最高の名君と呼ばれた北条氏康であったことや、自分の代で北条家を潰して(正確には五代当主は息子の氏直でしたが、実権を握り指示していたのは氏政でした)しまったことから、凡将と語り継がれるエピソードが多く残っています。

  

有名なところでは、氏政が食事をしている時に、飯の器に汁をかけたのですが、一度目に飯にかけた汁が少なかったのでもう一度、途中で汁をかけ足しました。

 

 

これを見ていた父親の氏康が 

『毎日の食事なのに、飯にかける汁の量も一回で量れないようでは、領国や家臣を推し量る器は氏政には無い。これでは北条家もわしの代で終わってしまう』

 

と、生前に嘆いた逸話があります。飯の汁かけの量位で、ここまで言われるのも可愛そうですが、実際に必要な物の量や時間の仕切りが出来ない人は、無駄な行動が多くなり良い結果を残せないのは確かでしょう。 

 

 天下統一をめざす豊臣秀吉は、北条家と対決するために、全国の諸大名に声をかけ空前絶後の包囲網をひきます。

 結局、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、戦国大名北条氏による関東支配を終結させる最期となりました

 

 

■「小田原評定」のお話し

 

無駄に長い会議のことを『小田原評定(おだわらひょうじょう)』という慣用句で言い表すことがであります。

 

この小田原評定という表現は、戦国時代に北条氏政が貴重な時間を結論の出ない会議を無益に繰り返したことで、名家である北条家を潰してしまった話から来ている例えです。 

 

この小田原評定が行われた背景には、当主北条氏直の父であり前当主であった北条氏政が小田原城攻めを仕掛けてきた秀吉に対して、出自を軽く見て侮ったことがありました。 

 

この時に行われた小田原攻めというのは、秀吉による天下統一事業の最終段階として豊臣政権の全ての力を結集して行われていました。その為、日本国における全ての大名達が参陣しており、圧倒的な兵力を持ってして小田原城を豊臣軍が包囲していたのです。

 

 もはやこの時点で決着が付いていたといえるでしょう。 

 

本来であれば、迅速に降伏の知らせを出して、北条家断続の話し合いに臨むべきところですが、小田原城内においては 

『あくまで打って出て、箱根に出撃して野戦を行うべし!』

 

なんて主張や 

『篭城策を持ち入れば、この小田原城は落ちない』

 

などの、主張をする重臣達によって無意味な会議が、延々と日を変えて続けられました。

 

この間の氏政は、まだ秀吉の力を侮っていて、東北の唯である伊達政宗が北条家に味方すると信じていたり、場合によっては徳川家康も味方に付いてくれるとの甘い考えから、この会議を時間稼ぎにしていたとも言われています。 

※このあたりの経緯は、家康に何らかの思惑があり、北条方をそそのかしていた可能性もある気がします。

  

しかし、頼みの伊達政宗は遅れて豊臣軍として参陣して来ます。 

※有名な、白装束(死に装束)で秀吉へ遅参の詫びをアピールしたお話は、この時のものです。

 

ここに至って、さすがの氏直、氏政親子も、敗北を理解して降伏をすることになりましたが、それはいかにも時すでに遅しの感がある降伏でした。その代償は大きく、明らかに無駄な会議を続けていたことで、初代北条早雲から五代に渡り続いてきた関東の名家を潰してしまったのでした。

 

結論をだせない長い会議のせいで、北条家にとっては最悪の結論となった小田原ぜめと、小田原評定でしたが、視点をかえれば、北条家は消えたものの、民と城、そして豊かな関東八州がその後の時代に引き継がれました。当時、まだまだ未開の地であった関東地方でしたが、秀吉は、褒賞として家康に北条家の領地を徳川家康にあずけ、その後の江戸での開府につながります。今につづく東京の発展を切っ先は、この小田原攻めにあったともいえそうです。

 

家康は、江戸城の築城にあたって、北条家がつちかった縄張り(まちづくりのグランドデザイン)を参考にしたとも言われています。

また、領民を大事にする政策(年貢の四公六民)も取り入れるなどの影響ものこしました

そして北条早雲が後世に与えた最大の影響は、一族の繁栄を願う『家訓をつくるブームを作ったことです。

 

国破れて山河あり。

下剋上は戦国のならいであっても、敗れた北条家が遺したDNAは、日本を豊かにしていくものでした。