住友家の歴史と家法

 

 

 

 

 

 『浮利にはしらず』

 

 

住友 政友(すみとも まさとも)

生誕:天正13年11月11日(1585年12月31日)

死没: 慶安5年8月15日(1652年9月17日)

 

越前国丸岡出身の江戸時代の商人で住友家の初代。元涅槃宗の僧侶。

  

住友政友は京都で書林と薬舗の商いをはじめ、以後銅山経営、両替商を開始し、現在まで続く一大グループに成長しています。一族が経営から身をひいたあとも、浮利(ふり)にはしらずに代表される「家憲」は守られています。現在も住友グループ全体の売上高は約60兆円に達し、これは日本のGDPの約10%を占める規模です。また、住友不動産は、住友家の不動産資産を譲り受けてスタートしたことから、住友の本流を受け継いでおり、旧住友本社の資産を住友商事が引き継いでいます。

 

 ■住友家の歴史

 

 (参照:住友商事 HPより) 

http://www.sumitomocorp.co.jp/company/history/

  

住友の歴史は、17世紀に住友政友(まさとも)[1585-1652]が京都に書林と薬舗を開いたことに始まります。

 

政友は商人の心得を説いた「文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)」を残し、その教えは今も「住友の事業精神」の基礎となっています。

 

「文殊院旨意書」の冒頭には、「商売は言うまでもなく、人として全てのことに心を込めて励むこと」と、一人一人が単なる金もうけに走ることなく、人間を磨き、立派な人格を醸成することを求めています。そして本文では、正直・慎重・確実な商売の心得が説かれています。

 

同じ頃、京都で銅吹き(銅精錬)と銅細工業(屋号:泉屋)を営んでいた政友の姉婿、蘇我理右衛門(そがりえもん) [1572-1636 ]は、粗銅(あらどう)から銀を分離する精錬技術「南蛮吹き」を苦心の末に開発しました。理右衛門の長男で政友の娘婿として住友家に入った住友友以 (とももち) [1607-1662] は、大阪に進出し、同業者に「南蛮吹き」の技術を公開し、これにより住友・泉屋は「南蛮吹きの宗家」として尊敬され、同時に大阪はわが国の銅精錬業の中心となりました。

 

江戸時代の日本は、世界有数の銅生産国。泉屋は銅貿易を基に、糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易商になり、「大阪に比肩するものなし」といわれるほど繁盛しました。 

 

泉屋はその後、銅の採掘にも進出し、1691年に幕府の許可を得て別子(べっし)銅山を開坑。283年間にわたり銅を生産し続け、住友の事業の根幹を支えました。

 

  

■文殊院旨意書

 

前文:商事候や。不及言候へ共、萬事情に可被入候。

 

一、何に而も、つねにそうばよりやすき物持来候共、根本をしらぬものには候はば、少もかい申間敷候。左様之物を盗物と可心得候。

一、何たるものにも、一やのやどもかし申まじ。又あみかさにてもあつかるましく候。

一、人のくちあいせらるましく候。

一、かけあきないせらるましく候。

一、人何やうの事申候共、気みじかくことはあらく申ましく候。何様重而具に可申候。

 

『泉屋叢考』第4輯(住友修史室編、1952年、p103)

 

解説

全文には「商売は言うまでもなく、人として全てのことに心を込めて励むこと」と、一人一人が単なる金もうけに走ることなく、人間を磨き、立派な人格を醸成することを求めています。そして本文では、正直・慎重・確実な商売の心得が説かれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「国益を先にし、私利を後にする」

(鈴木総理事の経営方針)

 

 

鈴木馬左也が第三代の総理事の座に就いたのは、まだ四十四歳。先代・伊庭が五十四歳のときだったのに比べ、若く働き盛りだったことがわかる。その上、大正十一年に病没するまでの十九年間、住友のトップの座にありながら、住友の近代組織構築に務める一方、「条理を正し、徳義を重んじ、世の信頼を受ける」「国益を先にし、私利を後にする」など、忠孝の精神を基にした経営方針で事業の拡大を押し進めた傑物といわれています

 

住友財閥では、「君臨すれど統治せず」が家法であり、創業家一族は経営の実権をにぎらず、総理事に任せています。

 

住友には、戦前独立した商事部門がなかった。第一次世界大戦が勃発し、経済界は好景気にわき、多数の貿易商社が起業され巨万の富をたくわえます。そんな中、鈴木は、社内外の商事設立の機運を一蹴し、戦後、商社が開設されるまで、住友では商社開設が禁句になっていたそうです。実際、景気減退を機に多くの商社は倒産に見舞われる中、住友は堅実な会社経営を続けていくのでした

 

三井・三菱が商いから身をたてたのに比較して、住友は別子銅山を中心に製造業で伸びてきた違いがあるのと、そもそも初代の住友政友が書き遺した『文殊院旨意書』に「人と物の仲介をするな」とあるため、商事部門に否定的だったためといわれています。

 

■住友家と国家100年の計

 

江戸時代の南蛮ぶきの導入以降、住友家の歴史は、銅山経営を軸にすすめられていきます。

銅山の経営には、巨額の資本が必要です。時代、時代の好不況にながされることなく、目先の利益にをうばわれることなく、国家100年の計の経営が必要でした。

 

住友に飛躍をもたらした別子銅山でしたが、そこには負の側面もありました。別子銅山の急激な近代化によって周囲の山林の乱伐が行われるとともに、製錬所から排出される亜硫酸ガスが煙害となって森林の木々は枯れ、農作物に被害を与えていたのです。二代目総理事であった伊庭貞剛 は「別子の山を荒蕪(こうぶ)するにまかせておくことは、天地の大道にそむくものである」と考え、製錬所を沖合い20kmに浮かぶ無人島に移転するという一大事業に乗り出しました。さらに専門技師を雇い入れて植林事業を進めました。現在の別子銅山は、青々とした森林の姿を取り戻し、その姿は、私たちに「自利利他公私一如(じりりたこうしいちにょ)」の精神を思い起こさせます。

 

創業の地、別子銅山は、伊庭総理事の時代から約100年。当時、無謀ともいえる海上への工場移転の可否は、公害に苦しんだ地域を再生させることに成功し、新しく立ち上げた精錬所は、住友財閥に新しい利益をもたらしました

 

1980年代には、和歌山にあった製鉄所の公害の解決をはかるべく、茨城県の鹿島への工場移転を決断します。社員、家族をあわせ1万人をこえる前代未聞の集団移転です。

この鹿島工場では、90年代の鉄鋼不況のさなか、1000億をこえる投資が必要となる新型溶鉱炉の建設に着手します。世界中の鉄鋼メーカーが二の足をふむ大型の投資にも、当時の社長は、鈴木総理事の言葉を引用し「住友は国益を先にし利を後に考えます、たとえ住友金属が倒産しても、この日本に溶鉱炉が残ればいいじゃないですか!」と堂々と宣言しています

 

2000年代にはいり中国の経済復興がはじまると新型溶鉱炉は、威力を発揮し、国益を先にした投資は、住友金属に莫大な利をもたらしています。

 

家法にそい商事部門をもたなかった住友も、戦後は住友商事を設立しています。

いま住友商事が減損処理の口火を切り、アフリカで進めているニッケル開発事業の投資回収が見込めなくなり、16年3月期の連結決算に770億円の減損損失を計上すると発表。結局、資源関連の減損損失は1700億円に達し、通期の純利益を当初の2300億円から1000億円に大幅に下方修正しています。前年には米シェールガスの開発失敗などで3100億円の減損損失を出し、16年ぶりに最終赤字(731億円の赤字)に転落しています。

 

戦後の焼け野原が広がる日本にあって、浮利(ふり)をもとめる商事設立は、間違いでなかったと考えます。嘘も方便、家法も時には破ることも必要です。

しかし、「国益を先にし利を後にする」考えは今こそ大事にするべきなのではないでしょうか?

 

家訓ニスト幡谷が通った中高一貫の学校、清真学園は、日本では珍しい企業立の学校です。

実はこの学校、和歌山からの工場移転の際、社員の子息の教育環境をはぐくむため住友金属が数十億円の投資をし設立されています。

 

また地域振興のために、自身のもつ社会人2部リーグに低迷していたサッカーチームに世界的英雄ジーコを招聘、Jリーグ発足後は、鹿島アントラーズとして、強豪チームの1つとして全国に知られる存在となりました。川渕チェアマンからは99%ないと言われたJリーグへの加入、そしてまさかまさかの初年度の優勝をなしとげた鹿島アントラーズでしたが、当時の鹿島町の人口はわずか4万人。Jリーグの優勝で、新住民と旧住民の軋轢もあった鹿島が、本当の意味で1つになった瞬間となりました。この奇跡は、住友金属のポリシーがあってこその快進撃だったのです。

 

国益を先にし利を後にすり住友の家法は、鉄だけでなく、人も街もつくったのです。

 

60兆をこえる巨大コンツェルンとなった住友家にあって、2010年代に、2100年の未来にむけどういったビジョンをもち、どういった日本を創造していくのか?

創業400年。住友の家法に注目です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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著者 : 幡谷哲太郎

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 ■著者 

幡谷哲太郎(はたやてつたろう)氏 経歴

茨城県水戸市生まれ。日本青年会議所「徳溢れる心醸成会議」に所属中に家訓づくりを始める。

家訓づくりを広める活動を「家訓ニスト」と命名し、全国160カ所以上、7,000人の受講者に対し、家訓づくりのセミナーを開催。セミナー後に、「家訓を作り、家族での唱和を実践した」という家庭の100%が、「家族に変化があった」と回答するなど、大きな変化を与えている。

 

セミナー開催数、受講者数、WEBアクセス数、いずれも日本一の実績(協会調べ)を誇り、自他ともに認める家訓づくりのスペシャリスト。現在は、明るい豊かな社会の実現のため、家訓ニスト協会(仮)を立ち上げ、ノーベル平和賞受賞をめざし活動を広げている。