徳川家康 家訓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

■徳川家康 遺訓 

人の一生は重き荷を負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず

不自由を常と思えば不足なし

心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし

堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え

勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る

己を責めて人を責むるな

及ばざるは過ぎたるに勝れり

 

徳川家康 (とくがわ いえやす)

生誕:天文11年12月26日(1543年1月31日)

没年:元和2年4月17日(1616年6月1日)

 

徳川家康とは?

 徳川幕府の産みの親、徳川家康は、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)出身日本の戦国武将です。家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉に臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上も続いた戦乱の時代に終止符を打ちました。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く、平和な時代を築きました。

 

辞世の句は、「嬉やと 二度さめて 一眠り 浮世の夢は暁の空」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今も生きる家康の遺産

 

 世界有数の大都市となった東京。しかし家康が入城するまでは、江戸は水はけの悪いさびれた寒村であったと言われています。しかし、家康は、川の流れを強引に変えるなどの難工事にいどみ、今に続く東京の町割りを完成させました。その影響は、江戸から、明治と時代が変わっても活かされ続け、近年でも家康の遺産ともいえる恵みを私たちにもたらしてくれています。その1つが、都内をくねくねと走る首都高速です。

 

首都高速は家康の遺産

首都高速と言えば東京を走る高速道路です。もともとは東京オリンピック開催に際して、羽田空港から都心までスムーズにアクセスできるように建設されたものです。そのため、オリンピック開催が決まってから大急ぎで着工、完成させなければなりませんでした。しかもその構想は推定500年はかかるとされるもので、それをわずか5年で完成させたとあって、世界中を驚かせました。

 

短期間で完成させられた秘密は土地買収にお金も時間もかからなかったから。その秘訣は、江戸城のお堀を使ったからです。徳川家康は関東にやってきてお城を立てた時、一気に江戸城周辺(現在の都心)を整備して、お堀を築きました。その堀をちゃっかり転用したいうのが真相です。

 

ちなみに東京の首都高速は、世界中の大都市を見ても、都心にこんなに空中道路が張り巡らされている所は例がありません。ビルの間を縫うように走る光景には、訪日外国人にも好評で、 世界の人から見ると 「ドラえもんの世界だ!」 「未来の都市だ!」と感じるそうです 

 

ノーベル平和賞確実の抜群の実績 

徳川家康は、戦国の時代に終止符をうち、世界でも稀に見る長期平和を築きました。 ヨーロッパには250年に渡る平和な時代を実現させた国はありません。現存していれば紛れも無く「ノーベル平和賞」に選ばれるでしょう。

 

また秀吉により江戸の統治を任されました(体のいい左遷)際には、ただただ荒地の広がる江戸の地をゼロから開拓し今に続く大都市を築き上げました。江戸時代には100万人をこえる人口となり、当時のパリやロンドンをこえる世界一の都市に成長していきます。

 

江戸時代は、庶民文化が発達し、農民でも工夫さえすれば収獲が増えた分を自分の蓄えにして豊かになれた、やりがいのある社会だったといわれています。日本の国民性としての勤勉さは、この徳川時代の農民が、工夫しだいでは自分の収入を増やし、生活の改善が出来るという体制のもとで身につけたものだったのです。

 

海外の歴史家も、「私が庶民だったら、日本の江戸時代に住み、貴族だったら、19世紀イギリスに暮す」と言っています。

所詮、欧米の文化は貴族だけの文化であり、一般人は奴隷か、搾取されるだけの存在でしかありません。庶民が、書物を読むとか、余暇を楽しむためお伊勢参りに出かけるのがブームになるなど、どこの国でありえるでしょうか? 

 

家康は野盗の横行していた戦国時代を、わずかの時間で、女の一人旅ができ、年よりの芭蕉が丸腰で旅行できる平和な社会を実現させました。戦国時代~秀吉時代が世界に恐れられた軍事大国だった日本が、家康の徹底した政策によって長期の平和を築き、安定した内政を実現させいました。家康がきずいた幕藩体制をベースとした政治システムが、いかに世界的に評価されるべきものか、客観的に理解できると思います。

 

家康がつくった江戸という都市、そして江戸という時代は、その後の日本の繁栄に確実にひきつがれる土台となったのでした。

 

 

及ばざるは過ぎたるに勝れり

(家康遺訓より)

 

「未完成」という名の安定

世界遺産にもなっている日光東照宮。栃木県日光市にあり、徳川家康を祭神とするお社です。東照宮の陽明門には、12本の柱があり、その内の一本は逆むきに備え付けられていることが知られています。一見、不自然な逆むきの柱。その真意は、荘厳な建物も、完成した瞬間から崩壊が始まるという考えから、一ヵ所だけ不具合をつくり、いつまでも未完成であることを表現したといわれています。この建設様式を見て思い出すのは、家康の遺言の一節、「及ばざるは過ぎたるに勝れり」です。

  

賢者は歴史に学ぶ

1603年、将軍に任じられた徳川家康によって開府された江戸時代は、1867年、大政奉還されるまでの264年に及ぶ政権です。江戸時代は、世界史的に見ても類を見ない「長く平和な治世だった」と内外から高い評価を受けています。

 

家康は、歴史好きで有名でした。とくに、好んだ歴史書に鎌倉幕府の誕生の物語を記した「吾妻鏡」があります。この本には、天下人となった平清盛が、情けによって幼い源頼朝、義経の兄弟を助け、のちに成長した兄弟の活躍によって、平家が滅亡したことを記しています。書籍に学び、歴史を教訓にしていた家康は、「吾妻鏡」を反面教師とし、秀吉の遺児・秀頼を殺戮します。「平家の失敗」は、300年の時をへて、家康によって活用されたのです。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶもの、家康のジャッジはまさに、賢者の選択でした。

 

天下を不動なものにすべく様々な布石をうつ家康。しかし家康がうちだした施策のなかには、首をかしげるものもありました。それが、水戸藩を創設することとなる十一男・頼房に与えた家訓です。その内容は、「徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」というものです。家康の仕込んだ家訓という名の「トロイの木馬」は、264年もの間、眠りつづけ、幕末になりその威力を発揮します。江戸時代の最期の将軍となった徳川慶喜は、水戸藩の出身です。もちろん父からも家訓を守るよう厳しくしつけられていました。家康が仕掛けた「トロイの木馬」はどんな結果をもたらしたのでしょう?

 

及ばざるは、過ぎたるに勝れり

家康の遺訓は、「及ばざるは過ぎたるに勝れり」との一文で締めくくられています。東照宮の逆さ柱に限らず、家康は勝ちすぎることを嫌い、また常に負けた時のことを考えていた武将です。『江戸の備忘録』(磯田道史 著)には、徳川家康は水泳にうるさい教育パパであったことが紹介されています。その意味は、

 

「戦は常に勝つとは限らない。負けいくさもある。負けいくさになると、どんなに偉い大将でも馬に乗り、泳いで逃げなくてはならない。しかし、こればかりは、家臣に代わってもらうわけにいかない。だから乗馬と水泳教育は絶対必要だというのである」。というものでした。

 

家康の天下どりの大仕掛け 「トロイの木馬」

「トロイの木馬」とは、ギリシア神話に登場する兵器です。戦争において、トロイア(イーリオス)を陥落させる決め手となったと言われています。中に人が隠れることができるようになっていた。転じて、内通者や巧妙に相手を陥れる罠を指す言葉です。近年ではコンピューターウィルスでも「トロイの木馬」の通称がつかれています

 

家康は、十一男・頼房に、「もし戦になったら、将軍家でなく天皇の味方をせよ」との家訓を伝え、この世を去ります。この家訓は、トロイの木馬となり、東照宮の逆さ柱のごとく、完成された江戸時代にあって、水戸藩の家訓は、不均衡なバランスをとりつつ静かにその出番を待つのでした。

  

 

徳川家康遺訓に学ぶもの

 

家訓には、天下をとった徳川家康の人生観を反映させた至極の言葉が並んでいます。忍耐や我慢の大切さを息子や孫に伝えている内容です。それは、今を暮す我々にも活かせる教訓です。

 

家康晩年の言葉としてこんな言葉が残されています。「平氏を滅ぼすものは平氏なり。鎌倉を滅ぼすものは鎌倉なり。」歴史書をみれば、平氏を倒したものは源氏です。しかし、元をたどれば、平氏に驕りがあったため、敵にやぶれたとも、言い表せます。家康は天下をとったあと最後の敵を「慢心」であると、子孫に対しての厳しい戒めの言葉をのこしたことが分かります。家康ほどでないにせよ、我慢を重ねることを覚えれば、人生を成功させることができます。もし、ちょっとやんちゃなお子さんがいたら、家康の家訓を声にだして、一緒に唱和されることをお薦めします。

 

最初は意味が分からなくても、声にだし、そして暗記できるほど読み込むといいでしょう。一見むずかしい言葉が並びますが、かえってそれが燃えるポイントになります。とくにおすすめなのが、湯船での家訓の唱和です。家康公の家訓をお風呂のなかで、大きな声で暗唱し、お父さんと一緒に天下とりをめざしましょう^^

 

 

 

 

 

 家康遺訓をめぐるアナザーストーリー

 

実は贋作?家康の遺訓をめぐるストーリー

家康の遺訓をめぐっては、いまも真贋について学会で意見がわかれています。いまのところ有力なのは、明治維新後、家康のご遺徳を軽んじられることを危惧した幕臣の一人が、遺訓を贋作し、これを真筆だと思い込んだ高橋泥舟が日光東照宮に奉納し、世間に広まったとの説が有力です。ちなみに、この学説をとなえたのが、尾張徳川家の末裔だというのも歴史の面白さを感じます。

 

遺訓に異をとなえた徳川義宣氏。その研究成果として、「いま流布している家康遺訓の底本は伝水戸光圀作「人のいましめ」(『天保会記』1830年に見える)であったようである」と述べています。かくいう光圀公は家康の孫。孫だとしたら、家康の遺訓を耳にしても、矛盾はないようにも思えます。家訓二ストは、学者ではありません。これからも家康の遺訓の真贋にかかわらず、多くの人が「信じてきた」という一点で、本物としてブログで紹介していきます。 

 

明治維新後の徳川家

あまり語られることのない明治維新後の徳川家のその後、海外の例をとれば、旧政権をになった王族は、虐殺されるか、亡命をし延命をするというのが一般的です。しかし、明治政府は、最後の将軍となった徳川慶喜には蟄居を命じるものの、戊辰戦争で官軍に協力した尾張徳川家を筆頭に、生き残った徳川家の縁戚に寛大な処置をみせます。

 

また、戊辰戦争で一番の被害をだした松平容保公が率いる会津藩にあっても、容保公には不如意な日々を送られましたが、明治5年には赦免され、同13年に5代目の宮司として、日光東照宮に赴任されています。家康公の遺訓が世間に流布されはじめるのはまさにこうした時期でした。幕府によって手厚く護られた日光東照宮も、維新後は1つの宗教法人として独立して運営する必要があったのです。政治の世界を離れ、神職として第二の人生を歩みはじめた容保公。世界遺産になった見事な建築はもちろん、家康公のご遺徳が現代にのこっているのも、容保公をはじめ、多くの幕臣たちの働きがあったのでした。

 

焼かれなかった日光東照宮

新しく政治をになった明治新政府の面々にとって、徳川幕藩体制は正すべき旧体制です。事実、政治、文化、体制、あらゆる面で新しくなったことで、当時の人は、維新でなく「御一新」(ごいっしん)と呼んだほどです。徳川の祖・徳川家康も御一新の対象となり、戊辰戦争のなかで、攻撃目標になったこともなります。その際、攻撃を命じられたのは、藤堂高虎を祖とする藤堂津藩でした。

 

藤堂津藩は、鳥羽伏見の戦いでは、いち早く官軍側につき、先祖伝来の?の機敏さをみせつけることとなります。かつて藤堂高虎は、関ヶ原や大坂の陣では豊臣家を見限って徳川の天下取りの走狗となったことで、外様大名でありながら、家康の信頼が一番厚い存在になっています。しかしその藤堂家が、今度は因縁の山崎の地で徳川家を見限ったのは、つくづく因縁というものを感じます。裏切りによって得た天下は、260年もたった後で、まったく同じように裏切りによって失われたのです。

 

しかし、藤堂津藩兵は戊辰戦争で薩長に日光東照宮を破壊することを命じられた際には、拒否しています。大きな恩のある家康公に墓標に弓をひくぐらいなら、官軍を攻撃するまでと、勢いのまま謀略をくりかえす官軍に、乾坤一擲の忠義をみせたのでした。

 

死せる孔明、仲達を走らす 

明治維新という激動期にあっても、結局は250年も前に、死去した家康の手のひらの中で、踊らされていたことがわかります。三国志の英雄・諸葛亮孔明は、死去したのちも、敵軍の将・仲達を疑心暗鬼のすえに、撤退させたことが、慣用句として知られています。死せる家康、日本を走らす。徳川幕藩体制は260年、明治維新後150年。現代を暮らす我々自身も、まだまだ家康公の策のなかで踊らされているのかな((+_+))

 

 

 

 

 

        

 

 

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書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

出版社: セルバ出版

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