山岡鉄舟の家訓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山岡鉄舟 (やまおか てっしゅう)

生誕:天保7年(1836年)6月10日

没年:明治21年(1888年)7月19日

 

 

■山岡鉄舟とは?

幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。享年は53歳。

 

9歳より剣術修行を行い、真影流(神陰流)、北辰一刀流を学ぶ。槍術家・高橋泥舟の妹婿となり、山岡家を継ぐ。徳川慶喜警固のため精鋭隊の頭に任命され、のちに勝海舟、西郷隆盛の会談を実現、江戸無血開城の立役者の一人となった。母親は、鹿島神宮の神官の家系であり、さかのぼれば、剣聖・塚原朴伝の子孫。

 

維新後は、静岡、茨城の参事(現在の知事)を務めた他、西郷隆盛らの推薦で、10年にわたり明治天皇の侍従もつとめた。身の丈1m90cm、体重100kgの巨漢にして、写真でもわかるようなハンサム侍。剣の達人であり、書の名人、求められれば誰にでも揮毫し、宵越しの金を持たないとばかりに、私財は、知人友人に貸し出す豪気さ。

 

漢(おとこ)の中の男。それが山岡鉄舟です。 

 

ちなみに、鉄舟の通称は、鉄太郎。・・・名は体を現す。どこか聞き覚えのあるいい名前です。

生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、そんな漢になってほしいものと、生まれた長男に、鉄舟の名前をお借りし、哲舟と命名させていただきました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■世界に誇る江戸城無血開城

 

江戸の無血開城とは、幕府側の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会談により江戸城の新政府への引渡しを決めた出来事です。

 

この時、すでに鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗れており、新政府軍は、討幕の総仕上げにと、江戸城への総攻撃の準備に取り掛かっていた頃です。一方、幕府側も情勢次第では、反転攻勢は可能とみて、新政府軍を迎え撃つべく、最新兵器をそろえ待ち構えているという状況でした。

 

会談にあたり勝海舟は訴えます。「江戸が戦火に巻き込まれるようなことがあれば、それはたちまち日本全土へと広がり、国力は疲弊してしまう・・・」 そこで勝は、西郷に提案を持ちかけます。「徳川家に対する寛大な処分を行うならば、抵抗することなく江戸城を明け渡す。」と・・・。  

 

西郷は、しばらくして「いろいろ難しいこともありましょうが、私が一身にかけてお引渡しいたします」と答え江戸の町は戦火となることなく江戸の無血開城が実現したのです。 その後、西郷たち幕府や藩などを越えた人たちと交流を深めていくこととなりました。

 

当時の江戸は、100万人を超える世界有数の大都市でした。もし、江戸が内乱に巻き込まれていたら、多くの被害者を出しただけでなく、混乱に乗じ、イギリス、フランス、アメリカといった欧米諸国が内政干渉をはじめ、日本が植民地化されていたとの指摘があります。事実、アジア、アフリカ、南米、すべての大陸で、有色人種の国々は蹂躙され、日本やタイなど独立を保った国は数か国しかないというありさまでした。江戸無血開城は、ギリギリのところで、日本の独立をまもり、そしてその後の繁栄の基礎をつくった、世界史史上まれな、聖断だったことがわかります。

 

 

 ■鉄舟と明治維新

幾多の豪傑を生み出した明治維新にあって、山岡鉄舟の知名度は高いものではありません。しかし、その活躍をみると、維新の影の立役者と言っても過言はない偉人です。

 

江戸城無血開城の際には、勝海舟と西郷の面会をセッティングする役目をおい、東海道をくだるる官軍陣地に単騎でのりこみ、討伐の大将である西郷さんとの面会を実現しています。江戸無血開城の立役者は、海舟と西郷だけではありません。その剣先は鉄舟がこじ開けたものでした。

 

江戸を目の前に、血気のさかった官軍の陣地を悠然とつっきり、また命がけの折衝をなしとげたことで、西郷さんは、鉄舟のことをこう評しています

 

生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、但しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私(むがむし)の忠胆(ちゅうたん)なる人とは、山岡さんの如(ごと)き人でしょう。」

 

また、維新後も要職を歴任しながらも、豪胆な性格はかわらず、致仕後、勲三等に叙せられたが、拒否してます。その際、勲章を持参した井上馨に、

「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったそうです

 

県知事をつとめながらも、剣術の達人であり、禅の大家であり、また書についても、一流の腕をもっていました。飾らない人柄で、人望にとんでいたものの、困窮する知人があれば、すぐにお金をひとにあげてしまう性格で、生涯、お金はなかったといわれます。前述の井上馨は、維新後、私腹を肥やし、国有の銅山を自分自身に払い下げた荒業と比べると、その生き様が光ります

死期がせまった際には、家族にこんな遺訓をのこしました

 

 金(こがね)を積み

 もって子孫に残す

 子孫未だ必ずしも守らず

 書を積みもって子孫に残す

 子孫未だ必ずしも読まず

 しかず陰徳を冥々のうちに積み

 もって子孫長久の計となさんには

 これ先哲の格言にして

 すなわち後人の亀鑑なり

 

  と、司馬温公の家訓を墨で黒々と書いて奥様に渡したといわれています。

 

明治維新は、近代国家として日本を成長させた革命でした。しかし、すべてが100点だったわけでもなく、内紛や、汚職、そして暗殺が横行するドス黒い側面をもっています。しかし、大東亜戦争後、GHQが、アメリカの正義をうたい史実をつくりかえたように、新政府も、江戸時代を徹底的に否定し、自分たちの革命を正当化させています。

 

教科書にのる英雄が本当の英雄なのでしょうか?

山岡鉄舟の生き様は、そんな明治の光と影を一身に背負っていると感じています。

 

 

■鉄舟家訓に学ぶもの

古来より「心・技・体」がそろっていることが、武芸では求められる姿勢でした。しかし、現代ではスポーツはスポーツ、勉強は勉強と、1つ1つが切り離されているのはでないでしょうか?剣豪として知られた鉄舟ですが、書や絵画にも優れ、また、政治家としても数々の業績をのこしています。強い心は、身体がつくり、つよい体が、また心をつくります。

やさしくなるたには、強くなければならない。強くなるためには、やさしくなければならない。動乱の時代に忠義に生きた山岡鉄舟の「漢」(おとこ)をみる家訓です。

 

1.嘘いうべからず候

2.君の御恩を忘るべからず候

3.父母の御恩を忘るべからず候

4.師の御恩を忘るべからず候

5.人の御恩を忘るべからず候

6.神仏並びに長者を粗末にすべからく候

7.幼者をあなどるべからず候

8.己れに心よからざること他人に求むべからず候

9.腹を立つるは道にあらず候

10.何事も不幸を喜ぶべからず候

11.力の及ぶ限りは善き方につくすべく候

12.他を顧みずして自分をよきことばかりすべからず候

13.食するたびに稼しょくの艱難を思うべし すべて草木土石にても粗末にすべからく候

14.ことさらに着物をかざり あるいはうわべだけをつくろうものは 心に濁りあるものと心得べく候

15.礼儀を乱るべからず候

16.何時何人に接するも客人に接するように心得うべく候

17.己れの知らざることは何人にでもならうべく候

18.名利のために学問技芸すべからず候

19.人にはすべて能、不能あり いちがいに人をすて或は笑うべからず候

20.己れの善行を誇り顔に人に知らしべからず すべて我が心に恥ざるに務むべく候

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治天皇の侍従として

名君との誉が高い明治天皇も、はじめから偉人天才であったわけではありません。明治元(1868)年に即位された時は、まだ15歳。英明な青年ではあったが、それが世界各国から称賛される大君主にまで大成されたのは、君側にあって天皇を将来の日本の指導的人格としてお育てしようと努力した人々がいたからである。

その中心人物の一人が、山岡鉄舟でした。

 

侍従とは?

維新前の天皇は、京都の御所の中で生涯をすごし、公家や女官たちに囲まれて暮らすライフスタイルでした。雅な文化を甘受する一方、武闘派の多い、明治新政府の中には心配する声が多く聞こえました。、西郷隆盛はこれを問題視して、明治天皇を近代国家を指導すべき、心身ともに強健な君主に育てようとした。

 

1000年以上にわたって続いてきた宮中文化を廃止、それまでは天皇の側近に侍する者は貴族に限る、というしきたりだったのを改め、各藩から勇壮な武士を集めて、側近につけます。その一人として幕臣から選ばれたのが、山岡鉄舟でした。

 

若い頃からひたすらに剣と禅の修行を積み、幕末には江戸に迫る官軍に乗り込んで和平を講じ、内戦の危機から日本を救った鉄舟の人格、胆力に西郷は惚れ込んでいた。鉄舟こそ、天皇を育てるべき人物だと考えたのです。

 

西郷の推挙に、鉄舟はその任ではないからと極力固辞したが許されず、とうとう「それでは10年だけ」ということで出仕することになった。時に、明治5(1872)年6月、鉄舟37歳の時であった。明治天皇、弱冠20歳前後の頃です。

 

明治天皇の相撲事件

晩餐に鉄舟が陪席した際。明治天皇はしきりに盃を重ねられながら、酒の勢いで鉄舟にからみます

 

突然、立ち上がられて、「山岡っ、相撲を一番来い!」と言われた。が、山岡は動きません。

「山岡っ、立て!」

「恐れ入り奉ります」と、鉄舟は平身低頭した。

怒った天皇は、右手の拳を固め、鉄舟の眼をつこうとして勢い鋭く飛びかかった。鉄舟がわずかに頭を横にかわすと、天皇は勢い余って、鉄舟の後ろに倒れ込んでしまいます

 

「不埒な奴だッ」

顔か手をすりむかれたようなので、他の侍従はあわてて天皇を別室にお連れして、侍医に応急の手当てを命じた。

 

鉄舟は静かに次の間に引き下がり、粛然と控えていた。周りの侍従たちは、すぐに謝罪するのがよいと勧告したが、鉄舟は頭を振って応じない。

「いや、私には謝罪する筋はござらぬ」

「しかし、陛下が君を倒そうと遊ばされたとき、君が倒れなかったのはよくない」

 その言葉に、鉄舟は決然と自説を述べています

 

何を言われるか。あのとき私が倒れたら、恐れ多くも私は陛下と相撲をとったことになる。天皇と臣下が相撲(すま)うということは、この上ない不倫である。だから私はどうしても倒れるわけにはいかなかったのだ。

もしまたあの場合、わざと倒れたとしたら、それは君意に迎合する侫人(ねいじん)である。

君は私が体を躱(かわ)したのを悪いといわれるかもしれないが、私の一身は陛下に捧げたものだから負傷などは少しもいとわぬ。しかし、陛下が酒にお酔いになったあげく拳で臣下の眼玉を砕いたとなったら、陛下は古今希な暴君と呼ばれさせ給わなければなるまい。また、陛下自身、酔いのさめた後に、どれほど後悔遊ばされることか。

 

陛下が鉄舟を非を責めるならば、喜んで自刃してお詫び申し上げる覚悟でござる。

 

「私が悪かった」

そのうちに明治天皇は眼を覚まされ、「山岡はどうしたか」とお尋ねになった。 侍従が鉄舟の言い分を奏上すると、天皇はしばらく黙然と考えておられたが、やがて、「私が悪かった。山岡にそう申すがいい」と言われた。

 

鉄舟の覚悟は固く、自宅で自ら謹慎します。その間、明治天皇は反省し、好きなお酒を断っていたそうです。1か月後、陛下からの再三の催促に応じた鉄舟が参内(面会)した際には、ワインを1ケースを抱えて現れ、お互いに大きく笑ったそうです。

 

その後も、天皇の鉄舟に対する信任は厚かった。明治15(1882)年、47歳の時、西郷と約束した10年が経ってので、鉄舟は宮内省を辞した。しかし、その後も明治天皇の特別な思し召しで、生涯宮内省御用掛を仰せつけられている。

 

暗殺や、疑獄事件など、魑魅魍魎が闊歩した明治初期の政治状況にあって、鉄舟のまっすぐな人格は、若き明治天皇に多大な影響を与えたと言われています。

 

かっこよすぎる男、鉄舟。

家訓二ストは、これからも鉄舟を勝手にリスペクトしていきます^^

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

「あんぱん」の誕生と、鉄舟の秘話

 

あんパンは木村屋(現・木村屋總本店)創業者であり茨城県出身の元士族・木村安兵衛とその次男の木村英三郎が考案し、1874年(明治7年)に銀座の店で売り出したところ好評を博したとされる。

 

翌1875年(明治8年)4月4日、花見のため向島の水戸藩下屋敷へ行幸した明治天皇に山岡鉄舟が献上し、木村屋のあんパンは宮内省御用達となった。以降、4月4日が「あんぱんの日」となっている。御用達となったことにより、あんパンと共に木村屋の全国的な知名度も上がった

  

※画像の見事な書は、木村屋総本店に伝わる鉄舟の作品です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 ■「和魂洋才」 明治という時代を象徴する「あんぱん」の物語

 

和魂洋才(わこんようさい)とは、日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の技術を受け入れ、両者を調和させ発展させていくという意味の言葉です。

 

長い鎖国の時代が終わり、明治時代になると西洋からやってくる産物がもてはやされ、日本に古くから伝わる伝統が軽んじられるようになりました。そんななか、「和魂洋才」という考えが生まれます。この「和魂洋才」の代表例が「あんぱん」です。

 

パンの中に小豆餡が詰まった「あんぱん」は、菓子パンの定番として、日本人なら誰もが知っていて、誰のお口にも合う美味しいパンです。この「あんぱん」、正真正銘、日本生まれの日本育ちなら、パンも、あんも、日本流です。 

 

中のアンコも純和製なら、外側のパンも、日本人の口に合うように発明された日本独特のパンです。 

普通の西洋式パンは、ビールと同じホップを用いたパン酵母を使って作られますのですが、あんぱんは、酵母ではなく、日本酒酵母の麹を使って作られるのです。

 

これは、パン作りに和菓子の饅頭の皮の製法を取りいれたもので、そのためパン自体がアンコの味によく合い、とってもおいしくなるのも納得です。  

  

あんパン献上 

明治8年、「木村屋」の『あんパン』は、安平衛の知り合いで、明治天皇の侍従であった山岡鉄舟の心をつかみました。鉄舟が安平衛に「陛下に召し上がっていただこう」と申し出たのです。その日から木村安兵衛・英三郎親子は陛下のために、特別な『あんパン』を召し上がっていただくため、試行錯誤を重ねたのです。

 

明治8年4月4日、ついにその日がやってきました。明治天皇が東京向島の水戸藩下屋敷を訪問します。その際にお茶菓子として『あんパン』が献上される段取りになっていました。はじめて『あんパン』を口にした明治天皇はお気に召し、ことのほか皇后陛下(照憲皇太后)のお口にあった。そして「引き続き納めるように」という両陛下のお言葉があったのだ。このあんパンは、パンの中心に桜の塩漬けが乗ったあんパンでした。このパンは今も『桜あんパン』として売られ木村屋で一番の人気になっているとのことです。

 

出典・参考資料 

「木村屋総本店百二十年史」

 

  

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■書籍概要

書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

  出版社: セルバ出版 価格 : 1,600円+税  

URL  http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063